2018年3月10日土曜日

山が好きだ



私は山が好きだ。
だからといって、登山もしないし、山に分け入って山遊びもしない。

目の前の高尾山に向かって「山は眺めるものだ」とかいって、仁王立ちして腕を組んで、エラそーに眺めているだけだ。


そんな私でも人と違うことをひそかにやっている。
それは山と一体になること(笑)。


以前近所に住んでる女の子が「山の声」を聞くのを驚きと尊敬の眼差しで見た。
あれから12年。山の声を聞いていたあの子は、今はガンガンに化粧をして、ガンガンにお洒落をして、とても大地に座り込んで山の声を聞いた本人だとは想像もできない。

「あんた、ちっちゃいとき山の声聴いてたやん」
と言っても、怪しいおばさんを見るような目で私を見る。

きっと世の大人たちは、昔自分がやっていた事をかけらも思いださないのだろう。


だが私は今でも昔の感覚を覚えている。
しかし昔のようにはいかない自分も知っている。
あの開放される感覚、すべてが一体になる感覚は、何度トライしてみてもできない。そんな自分を嘆くことしか出来なかった。


ところが最近、その感覚が戻って来たのだ。
私の思い描く山は、低山。富士山とかエベレスト山とかそんなりっぱなものではない。きっとちっちゃい頃見ていた禿げ山だ。だから目の前の高尾山はちょうどいい。
しかも山は見ていなくてもいい。ただ浮かんでくる山と一体となるのだ。


その時の心の安心感と安らぎと至福はなんともいえない。
山がもつ安定感。その上に豊かに生きる植物や、動物や、昆虫や、名もなき存在たちを、がーっとぜーん部ひっくるめて抱きかかえている山。すべてが自分の上や中にあっていいと許している。何万年と言う長ーい時間を「ふおっふおっふお。。。」とか、笑いながら受けとめるおおらかさ。
それがこのちっこい私のカラダにしみ込んでくる。

私は山の上を駆け巡る風となり、
大地の下をぬける素粒子となり、
転がり、飛び出し、
天狗のような気分になり、
ものでなくなり、
やがてすべてとなる。


その時、私は一個の人ではなくなる。
ただそこにある、なにか、になる。

それはどこかずーっと奥にひそんでいて、
「いつでもここにいるよ」と、告げているなにか。

ちっちゃい頃の私はいつもそれとともにいた。
そしてそれは、今もここにあるのを感じている。





2018年3月4日日曜日

オルゴールの中にいる私


自分の中にわき起こる思考をじーっと観察していると、あることに気づいた。
同じ言葉しかしゃべっていないのだ。

朝ふと目が覚めて、あたまが言い出す言葉。
ストーブがスイッチオンになる時に、感じる感情。
布団をあげる時に、言いはじめる言葉。
起き上がってトイレに入った時にいう言葉。
仕事している時に出てくる言葉。
買い物に出かけた時にいう言葉。
レジでお金を支払いながら出てくる感情。
晩ご飯の用意を考えている言葉。
風呂に入った時に言う言葉。
寝る前に言う言葉。
夜中にトイレに起きた時出てくる言葉。
そして朝目が覚めた時に、言いはじめる言葉。。。。

まるでオルゴールか、カセットテープが自動的に動き出すみたいに、
まったく同じ言葉を呟いている私がいた。

さらに聞いていると、一言一言はまったく同じなのだ。

がくぜんとした。
いやいや。私は曲がりなりにもクリエイターだぜ。新しいものを生み出す仕事の人が、同じ言葉しかしゃべってないだなんて。
どっかで新しいことを言っているはずだ。新しい、聞いた事もないような内容を、日々の中で発見しているはずだ。。。

しかし意識的に聞けば聞くほど、クリエイティブのひとつもない。
いつも同じ言葉を吐き、それを聞いたら、同じ感情をわき上がらせ、いつも同じ結末を憂う自分を見ただけだった。。。




心と見ている世界は同じものだ。なので、同じ考えの中にいては、同じ世界しか見れない。たとえ場所を変えて新しい所に出かけてみたところで、見たものに同じように反応するので、またおなじようなモノを見る事になる。
いわば、ひとつの箱の中で、ぐるぐるぐるぐるまわっているだけ。角度を変えてみたって、結局の所、同じ箱の中でしかない。


思考に乗らない、思考と同一化しないとは、こういうことだったのか。
理屈では判っていたし、だからこそ思考観察をつづけていたが、ここに来て、どうしてそうなのかと言うことを、別の視点から見たような気がした。




あたまが言うことをそのまんま聞く、鵜呑みにすると、わたしはいつまでたっても箱の中だ。その箱の中は、同じ思考で出来ているからだ。そしてずっと同じ世界を見続ける。

思考はある種、みえない牢獄の壁なのかもしれない。限られた思考の中で、限られた世界を見続けさせられる、透明な牢獄。。。

それは歳をおうごとに、固くなっていく。
世間はこういうもの、人はこういうもの、年がいったらああしなければいけないもの、こうでなければいけないもの。

歳がいくほどに、そういう言葉を友だちから聞きはじめる。そうやって、頭もカラダも固くなっていくのか。
お年寄りがどこか頑ななのは、「そうあるべき」が沢山増えて、かれらの見る世界は、より固く、狭くなっているのかもしれない。透明な壁は、ますます頑丈でびくともしないのかもしれない。


自分で自分を牢獄にはめている。
小さなオルゴールの箱の中で、同じ声を聞き、
それを鵜呑みにして同じ世界を見ている自分。
ここから出たい!と思いながら、
そのオルゴールの音に耳を傾け続けている自分。

小さなおとぎ話の中にいる私をみた瞬間だった。


2018年2月24日土曜日

なーんもコントロールできんわーい


十何年ぶりに、寝込み系の風邪を引いた。

何で引いたかわからない。でも引くもんは引く。どんなに気をつけてたって、どんなに万全の体制であっても、引くもんは引く。

しかしいざ引いてみると、布団の中で、あーしたのが悪かったのか、こーすれば良かったのかと、後悔と懺悔のオンパレード。
思考炸裂、感情炸裂、カラダの痛み炸裂、自我の大騒ぎに翻弄されまくる。日頃の非二元の訓練(どんな訓練や)はどっかにすっとんでしまう。

こんなとき、とことん「人生は何一つコントロールできない」と、思い知らされる。
指一本自分で動かせない。勝手に動いているのを見ているだけになる。思考のひとつさえコントロールできない。感情も、感覚も。

やっとマシになって来たかと思ったら、今度はダンナにウツしてしまった。さらに険悪なムードに。看病するのも触るのも拒絶される。ハアハア言ってる相手をただおろおろ見ているしかない。色々気をもんでも空回りするだけで、相手の機嫌はもっと悪くなる一方。


絶望的な気分の中で、ゆいいつの風穴が、久しぶりの営業だった。

病み上がりのカラダをおして冷たい雨が降る中、大きな作品をもって歩く。いったい何十年やって来たのだろうか。35年か。。。新しい作品が出来てはこうやって見せに行って来たが、よる歳なみごとに、直接会ってはもらえなくなる。そんな中の貴重なチャンスだった。

担当の方は、私の最近の作品をとても楽しそう見にてくださった。直接仕事にはむすびつかなかったが、すこしだけ手応えはかんじた。とてもありがたかった。



家に帰り着いた。
何も変わってない。

そのとき、自分の心の状態に気がついた。
わたしは未来に希望を託していたのだ。

今ある現状から逃れるために、営業と言う風穴を開けていた。あっちから、いつかいい風が吹いてくるはずだ、、、と。
それは今おかれている自分の状態から目を背けるための手段に過ぎなかった。

「営業」は、私の心の保険であったのだ。
営業さえやっていれば、いつか、どこかで、ここから脱出できる。。!
逆に言えば、何もしていないとは、ここから脱出は出来ない!と。
だから私は無意識に営業という行為に賭けていたのだ。

それは何をかくそう、「ここ」がいやなのだ。
「ここ」をなんとかしよう、「これ」をなんとかかえて、他の何かになろうなろうとしていた。

自分が今ある感情や思考と向き合うことをさんざんやってきたくせに、こんな所に落とし穴があった。
現実の苦しさから逃れよう逃れようとしている自分がそこにいた。

このゆいいつの希望さえもが、逃げであったのか。


抵抗が苦悩を生むことを知っていた。ありとあらゆる抵抗に気がつき、それと向かい合うことをやって来た。私たちがもっているありとあらゆる抵抗。それと正直に向かい合う、ジミーな作業。それでも成果があった。心の中はだんだんと静かになっていった。
そしてそこにはいろんな理解が生まれる。ああ、こういうことだったのか、そういうことか、と。

そんな中で秘密も知る。

やった!これだ!私は秘密を知ったぞ!
もうここから先は苦しみはない!と一瞬の開放が訪れる。

だがそれもつかのま。
また苦悩がやって来る。

この世は固定された方法論など提示してくれない。一瞬一瞬が前回とちがう姿で現れてくる。対応が同じではまったく歯が立たない。

それがこの世界。
何一つ同じものはない。



苦しさは、どうやっても逃れられない。
ゆいいつ、その絶望的な苦しさの中で、癒される。



2018年2月12日月曜日

探求の衝動


気がつくと、ネットサーフィンしていた。

さんざん見て来た非二元の動画をまた見返している。
どこかに新たな考えをもったお人がいないか。

これも見た、
このひとも知ってる、
このひとはちょっといやだ、
このひとはここまでしかわかってない、
もっと、なにか、すとんと落ちるようなことを言ってくれる人は。。?

あ。。
クリックし続ける手が止まった。
何探しているんだろう。。
そのとき、ある動画の女性が言った。

「じっとしていられないのよ。
今ここに、ただいることがとっても居心地が悪いの。
常に、次へ次へと行こうとしている衝動があるの」

それ、わたしじゃーん。

だからクリックし続ける。
次の何か、次の発見をさがして。

これが無意味なことは百も承知だ。
外には探すものなどないと知識ですでに知っている。
外に答えなどない。

マウスをもった手をそっと離す。カラダが何かを探して振動しているのを感じる。
椅子から立ち上がり、キッチンでインスタントコーヒーを入れた。
裸足で庭に出て、石の上に座る。
目の前にある一枚の木の葉っぱを見た。

だめだ。
じっと見てられない。
カラダはじっとしていられない。目を一点に集中させることも出来ない。
探している。次の何かを。。。

地面に視線を落とし、全身を感じる。胸のあたりがざわざわする。
く、、、、苦痛だ。。。
それでもじっとその苦痛の中にいた。


ふと、これもエネルギーなのではないか?と気づく。
エネルギーが揺らめいている。エネルギーが波打っている。

それを私は、「衝動」ととらえた。
それを私は、「探求」ととらえた。

自我はあらゆるものに「名前」をつけた。
このエネルギーは「怒り」
このエネルギーは「悲しみ」
このエネルギーは「恐怖」
このエネルギーは「コーヒー」
このエネルギーは「椅子」
このエネルギーは「パソコン」
このエネルギーは「人間」。。。

そして、今のこのエネルギーの波に、
「探求の衝動」と名付けたのだ。。。

それに気づくと、その「衝動」は一気に冷めた。
さっきまであった落ち着かなさは消えた。
目の前の一枚の葉っぱを、静かに見ていられる私がいた。



「Mayhem & Mass」ミステリーシリーズ表紙イラスト



2018年2月10日土曜日

うほ♥



ふと「○○をやってみたい」と浮かぶ。

「うほ♥」と、心がウキッとする。
未来に起こることにドキドキワクワクする。

んが。
その直後、それとは正反対の言葉があふれてくる。
「それやって、どーするの」
「またあんなことになるんじゃないの」
「それ、意味なくね?」

とたんに、浮かんだことが、膨らんだ風船の栓をぬくように、しゅるしゅるしゅる~~~っとしぼんでいく。

過去起こったかなしー出来事が走馬灯のように一瞬で広がる。

「そうだそうだ。ジェッタイそうだ。何考えたんだろ。あほじゃね?あたし」
「あーバカバカし。さっさとやること終らせよ」
といって、またいつもの変わらぬ日常にもどる。

こういうあたまの中のやりとりが日常的に起こっている。



若いときは経験がないので、やりたいと思ったことをすぐ実行した。
しかし段々経験が増えていくと、「経験」という場所から判断やジャッジが始まって、インスピレーションは、ただの「妄想」に片付けられていく。


自我は過去を追いかける。
「今度はティラノザウルスにおそわれないよーに、身を隠すのだ」
という肉体的に傷つくリアルな肉体的保持のために利用できる道具だ。

と同時に、心が傷つくというものにまで肉体保持をしようとする。
どうも自我は肉体的に傷がつく体験と、心が傷つく体験の区別がつかないらしい。どっちもリアルな体験として保護をしようとするようだ。


であるから、何か新しいことをしようとすると、過去の経験を持ち出し、
「それはあぶない」といってくるのだ。

新しいことは未知だ。過去の経験が通用しない。
なのに過去の経験を引っ張り出して来て、最悪の状態を思い起こさせ、未知の中に入っていくことをとどめようとする。

年がいけばいくほど、未知に入りたがらないのはそこだ。経験がいっぱいあるからだ。自分自身の経験、他人から聞いた経験、メディアが教えてくれる経験。

そうやっていつもの場所におさまりたがる。
「あ~~、いつものここで、あ~んしん♥」と。



だが、どこかで沸々と心が騒ぐ。
「ここじゃないどこか。。。」
「なにかが欠けている感覚。。。」
「あるべき姿。。。」


ある時ふと浮かぶ、今までになかったインスピレーション。
「あ!うほ♥」とワクワク。

その直後、自我は言う。
「それ、意味なくね?」

「ああ、そうやそうや。やってなんになる?」
と過去の失敗を思いだす。

で、「あ~やっぱ、ここで、あーんしん♥」
と、ほっこりする。

の、繰り返し。



そういう心の繰り返しに気がつくのはおもしろい。
そうやって、心があっちゃこっちゃしているのに気がつくのはおもしろい。
その時、あなたは無意識の自動反応の中にない。
否定もせず、ただ見ている。

そのときあなたは、外にいる。







2018年2月6日火曜日

「それがある」と意識した時から、それがある。


「それがある」
と意識したときから、それはある。

先日畑からの帰り、雪の重みで倒れた竹の枝が額に引っかかった。
「いて」と思ったが、まったく忘れていた。


ある日、トイレの鏡で、自分の額に一本の赤い筋が入っているのを発見。
「あ。あんときの竹の枝で引っ掻いたんだ。。」
と気がついた。

それからすぐに、
「なにそれ!どうしたん!?」とか、
「えらい傷があるけど、猫でもいるんですか!?」
と、皆ビックリしながら言ってくる。

自分でみえないから、傷の自覚なし。
化粧もしないし、クリームも塗らないので、鏡を見る習慣がない。
だから自分の顔がどうなっているのか、2、3日まったく知らなかった。

おもしろいなあとおもう。
それまでだーれもその傷に気がつかなかった。
トイレで私自身がそれに気がつくまで。

「私の額には傷がある」
と意識した瞬間から、それは存在し、皆に見つけられるのだ。

2018年2月5日月曜日

恐怖はこの世をリアルにする


恐怖って、この世をめちゃくちゃリアルにするんです。

先日、雪の降る日にダンナと都心に出る予定があった。その日は飲んべの日なので楽しいはずが、ある一点だけ気がかりなことが。。。
ダンナは車で都心に出ようとしていた。ノーマルタイヤで。

「状況を見て、その時決めよう」
と言う話しだったが、当日雪はどんどん降り続いた。

「こりゃ、絶対車じゃ無理だな」とおもいつつも、
「でも。。。あいつのことだから、無理やりにでも車で行こうとするかもしれない。。。」
と思いはじめたら、恐怖が止まらなくなった。


日頃の非二元訓練(どんな訓練や)で、鍛えているはずの私。
恐怖のひとつや二つ、軽く乗りこなせるはず。。。。

恐怖を感じている自分にオッケーを出す。
「おお、怖いんだね。怖いって思ってるんだねー。いいよー」
すると、
「ハイ。おっしゃるとおり怖がってます。では、また怖がることにします」
と、また恐怖が襲ってくる。

いかんいかん。
そうだ。これは未来のことばかりを考えているぞ。
今だ!今にあればいーんだ。
「今!今!今~!」
と、頭で言い続ける。
そればかり言い続けて疲れてくると、
今度は高速道路でスリップして横転するイメージ、他の車に激突するイメージ、なぜか私だけ死んでしまうイメージなど、怒濤のようにイメージが襲ってくる!

ギャーーーっ!恐怖がとまんなーい!!!

カラダはメチャクチャ忙しく動き回っているのに、頭だけがまったくちがうことで恐怖を感じ暴走している。
カラダも心もヘロヘロになった。

雪道に足をとられながら歩いていると、
「あ。。。恐怖って、この世をリアルにするんだ。。。」
と、気がついた。

何の問題もないと、人は何となくほわ~んと生きてる。
ところが問題を見つけると、いきなりこの世はガッチガチにリアル感満載になるのだ。

ダンナと自分というはっきりとした分離が生まれ、車と高速道路という分離が生まれ、生と死という分離が生まれ、物質が確固とした物質としてリアルに立ち上がり、イメージまで膨らませて、臨場感ターップリになるのだ。


家に帰り着くと、車のやねに10センチほど雪が積もっていた。
「ムリムリ」と言いながら、家に入る。
ヘロヘロなカラダをコタツに滑り込ませて30分ほど寝る。

目が覚めると、なぜか作業着に着替えて、スコップをもって外に出る。
「いやいや。何やってんねん。私」
と、心は言う。
心とは裏腹に、スコップで車のまわりの雪かきをはじめた。

30分ほどで、まわりの雪かき終了。
家に入りながら、車の屋根の雪を見つける。
「いやいや。これやったら、本気で車で行くことになっちゃうでしょー」
と、ひとりツッコミをしながら、家に入る。
ヘロヘロがますますヘロヘロになって、コタツに滑り込む。


ところが、ダンナが帰るちょい前に、カラダは勝手にコタツから這い出て、倉庫からほうきを持ち出し、ちゃんちゃんこのままで、屋根の雪下ろしをしはじめる始末。。。

またコタツでカタツムリしていると、ダンナが帰って来た。

「どーすんの?」
「車で行くさー」
「はあ。。そーですか。。」

そのまま車に乗って都心に向かう。
なーんの問題もなく、スイスイ。
都心に雪などなかった。

そしてとーっても楽しい飲んべの時間を過ごし、スイスイ帰ってきましたとさ。
ちゃんちゃん。


って、あのものすごい恐怖感は、いったいなんだったんだあ~~~!

「はい。リア充、感じさせていただきました」


「カリスマ社長の大失敗」/MF新書表紙イラスト