私は山が好きだ。
だからといって、登山もしないし、山に分け入って山遊びもしない。
目の前の高尾山に向かって「山は眺めるものだ」とかいって、仁王立ちして腕を組んで、エラそーに眺めているだけだ。
そんな私でも人と違うことをひそかにやっている。
それは山と一体になること(笑)。
以前近所に住んでる女の子が「山の声」を聞くのを驚きと尊敬の眼差しで見た。
あれから12年。山の声を聞いていたあの子は、今はガンガンに化粧をして、ガンガンにお洒落をして、とても大地に座り込んで山の声を聞いた本人だとは想像もできない。
「あんた、ちっちゃいとき山の声聴いてたやん」
と言っても、怪しいおばさんを見るような目で私を見る。
きっと世の大人たちは、昔自分がやっていた事をかけらも思いださないのだろう。
だが私は今でも昔の感覚を覚えている。
しかし昔のようにはいかない自分も知っている。
あの開放される感覚、すべてが一体になる感覚は、何度トライしてみてもできない。そんな自分を嘆くことしか出来なかった。
ところが最近、その感覚が戻って来たのだ。
私の思い描く山は、低山。富士山とかエベレスト山とかそんなりっぱなものではない。きっとちっちゃい頃見ていた禿げ山だ。だから目の前の高尾山はちょうどいい。
しかも山は見ていなくてもいい。ただ浮かんでくる山と一体となるのだ。
その時の心の安心感と安らぎと至福はなんともいえない。
山がもつ安定感。その上に豊かに生きる植物や、動物や、昆虫や、名もなき存在たちを、がーっとぜーん部ひっくるめて抱きかかえている山。すべてが自分の上や中にあっていいと許している。何万年と言う長ーい時間を「ふおっふおっふお。。。」とか、笑いながら受けとめるおおらかさ。
それがこのちっこい私のカラダにしみ込んでくる。
私は山の上を駆け巡る風となり、
大地の下をぬける素粒子となり、
転がり、飛び出し、
天狗のような気分になり、
ものでなくなり、
やがてすべてとなる。
その時、私は一個の人ではなくなる。
ただそこにある、なにか、になる。
それはどこかずーっと奥にひそんでいて、
「いつでもここにいるよ」と、告げているなにか。
ちっちゃい頃の私はいつもそれとともにいた。
そしてそれは、今もここにあるのを感じている。
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