自分に正直になるとは、
自分が今恐れている、ということを自覚することだ。
私たちが自分の心を見たくない理由はそこにある。
恐れている自分を知りたくないのだ。
小さい時から「恐れてはいけない」と親から教わってこなかっただろうか。
それは親もまた、恐れてはいけないと言う思いを抱えているからだ。
だから恐れている我が子を見るとイライラする。
そして「恐れるな!」と怒る。
でも恐れるな!って怒られて、
はいっ、わかりました!と恐れなくなれる子供っているか?w
それほど恐れとは「見てはならないもの」アンタッチャブル領域に入る。
恐れといってもいろんな言葉で言い換えられる。
心配、犠牲、モヤモヤ、苦しさ、イヤーな気持ち、ビクビク、ドキドキ、ハラハラ、惨めさ、悲しさ、寂しさ、いたたまれなさ、憎しみ、嫉妬、、、。
あらゆる形をとった恐れのバリエーションに気がつくこと。
普段はその恐れに気がついて、とっさに否定する、
あるいはないことにする、
さっとカーペットの下に隠すことはよくやることだけど(やるんかい)、
それをあえてしない。
自分の中に恐れがあることを見ることだ。
それは恐れている自分を肯定することでもある。
「私は今、恐れているのだあ~!」
と胸を張っていう(笑)。
この行為はとっても大事。
行為と言っても、体の行動のことじゃない。心の行動のこと。
その自分の恐れを見ることが、心が強くなっていく過程。
ここから心の訓練が始まる。
自分の心を正直に見る、つまり自分の恐れを正直に見始めると、
今まで自分がどれだけ恐れの中で生きていたかがわかる。
また、その恐れを見ないようにするために、
気を紛らわせたり、違うことをやって忘れようとしたり、
それを克服するための解決方法を必死で考えたりしている。
行動のほとんどのモチベーションが、恐れから発していることにも気がつく。
そして恐れをもたらした誰かを非難して攻撃していることにも気がつく。
怒りの下に恐れがある。攻撃されたと思うから、それに対して防衛をする。
防衛のための攻撃として怒る。
その恐れの元になっているものは、体。
自分は体という思いが、外から傷つけられる、攻撃されると信じる。
実際、体は何も傷つてられてはいないのに傷ついたという。
それは自分は体だと信じているから、
その思いさえも体と同じように解釈して傷ついたと思うのだ。
しかし実際心は何も傷ついてはいない。
心も体と同じように傷つくと思うのは、実は観念なのだ。
恐れは観念でしかない。
それはおいそれとはわかることではないけれど、
ああ、気のせいなのねとバイバイできるようなものではないけれど、
まずは自分の中にある恐れを自覚すること。
恐れながら行動している自分に気がついていること。
そのうちに恐れている自分の位置とは違う位置でそれを見ている自分に気がつき始めるだろう。
恐れと同一化していない自分。
恐れの中にいる自分を外から見ているのだ。
そのすぐそばにもう一つの別の見方をする存在がいる。
それをコースは聖霊という。
その聖霊とともに、この恐れを見る。
恐れはまだそこにあるだろう。
けれども聖霊の視点は、これを恐れとは見ない。
聖霊の中に恐れという判断はない。
まったく違う見方をする。
それは愛の眼差し。
聖霊は愛という判断しかない。
私たちはその聖霊とともに、その恐れの見方を変えていける。
それが私たちの本来の見方だったのだ。
その見方をすっかり忘れてきてしまった。
だが思い出せる。
その意志さえあれば。
すべてを愛で見る心眼。
その眼差しで見た世界は、いったいどんなふうなのだろう。
絵:似顔絵「JAY-Z」
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