2018年8月5日日曜日

あ、きゅうりがない


「あ。きゅうりがない。。。あ。とうもろこしもない。。。」
畑にあったはずのものが、どっちも消えていた。

「。。。。」
なんも言えない。

気を取り直して、秋に植えるダイコン用の畝の草を刈りはじめる。
「これもサルに引っこ抜かれるんだろうな。。。」
そう思うと、急にやる気が失せた。


サルも食べる野菜をわたしが口に出来るのは、年々減って来て収穫の1割程度。じゃがいも、とうもろこし、えだまめ、キュウリ、ダイコン、ズッキーニ、さつまいも、落花生、今年はトマトと、残り9割はサルどんに寄付している状態である。
近所の人に「オタク、サルに餌付けしてるんじゃないの?」
とかいわれそうなくらいである。



人の行動は必ず目的を持っている。
「収穫」という結果を求めて種を蒔く。

それは畑だけじゃない。すべてだ。
絵を描くのも、仕事するのも、『良い結果』をゲットする!という大前提を目標に行為する。
物だけじゃない。評価もそうだ。
人にほめられるため、人にここにいていいと言われるため、人にすごいやつだといわれるため、人にうらやましがられるため。
はたまた、神さまに認められるため。
地獄でなく、天国に入れてもらうため。
行為の後ろに必ず「目標=結果」という動機がある。

わたしもイヤシさゆえに、そして無肥料無農薬でも育つ!と言わせたいがために、種を蒔く。
それがことごとく否定される現実。

「結果」を求めちゃいけないのか?
人並みの欲をもってはないけないのか?
ひとり畑で呆然とする。




人は結果を良い方に望む。悪い結果を望む人はいない。
結果に判断を下す。「これは良い結果だ。それは悪い結果だ」と。
それが苦悩を生む。
そして出来れば、つねに良い結果だけを求める。
それがますます苦悩を生む。


しかし良い悪いはどこで区切るかで判断が変わってくる。目先の事で区切ればこの畑の結果は悪い事だ。しかし何年という単位でもっと引いて見れば、この畑は良いか、悪いかと言えば、良い結果に思える。もっと引いて、わたしの人生という区切りで見れば、良い結果だと思えてくる。
なんだ。大きく引いて見れば見るほど、良い結果しか見えてこないじゃないか。




「現れてくる現象を理解することなどできない」
そんな言葉が浮かんだ。

思考は、あらわれてくる現象を、「これはいったいどういうことだ!?」と、理解を求めようとする。
それは心が納得、安心したいからだ。

「この夏の暑さはいったいどういうことだ!?」
というと、気象庁は南の海水温が上昇しているから、、、とかいろいろいってくれるだろう。けれどそれを知ったからといって、じゃあ海水温を下げて、、とか解決法があるわけでもない。せいぜい熱中症にならないように気をつけるぐらいだ。そもそもなんで海水温が上がっているのかもあいまいだ。

「何で畑にサルがやってくるのだ!?」と、理解しようとした所で、何の解決にもならない。鉄砲で撃つことも出来ないし、電気を張り巡らせることも出来ないし。


心が納得し、安心できるものが何一つない。

それでも手は勝手に草を刈る。
またそこにダイコンの種はまかれるのだろう。






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