2018年8月8日水曜日

努力の人


父は努力家だった。

4度の手術でも、その後の回復力は目を見張るものがあった。それはひとえに彼の地道な努力によった。ずっとずっと地道な努力をしてきた父。それは最後の日々の中にも現れていた。

父の手帳には文字がぎっしり埋め尽くされていた。
その日のお天気、気温、朝の血圧、便の回数、状態、食事の回数、薬の回数、おしっこの回数、夜の血圧、、、。

時間通りに起き、時間通りに朝食を取り、コーヒーを飲み、昼食を取り、おやつを食べ、夕食を食べ、時間通りに寝る。

義母から聞く父の日々の過ごし方は、尋常じゃなかった。きっちり決めた時間ぴったりに食べていたのだ。

亡くなる四日前、わたしは父が日記を付ける様子を見ていた。
「今日のお天気は、、、晴。。。
気温は、、、24度。。。
血圧は、、、上が、、、120、、、。
下が、、、80、、、。」
と、いいながらボールペンで書く文字は、わたしにはまったく読めなかった。

震える手で必死で手帳に書き込む父。まるで自分が今ここに生きているという証を刻み込もうとしているかのように。

「起きたいのに、起き上がるなと言われる、、、歩きたいのに、危ないから歩くなと言われる。。なんちゃあできんじゃいか。。」
リハビリに精を出し、医者や看護婦さんたちを驚かせて来た父は、何もせんでいいと言われ、なにも出来ない自分を嘆いていた。
努力の人は、最後まで何かをがんばろうとしていた。



人は、自分がここにいていいという証をもらおうとする。
努力をして褒められることで、父は生きていた。
父だけじゃない。わたしも。

フェイスブックが流行るのも、何かをして、「いいね!」といってもらうためだ。
人に認められて、自分はここにいていいんだと安堵する。

しかしそれは一瞬。
あっというまにその安堵は消えてしまう。
そしてまた次の「いいね!」をもらうために、何かをしようとする。

しかしそれも出来なくなったとき、父はそのよりどころをどこに求めれば良かったのか。




私たちはなぜか、自分で自分を認められない。何もしないでいる自分を認めることは出来ない。ただそこにいるだけでいいのだ、とはほとんどの人が思わない。だからなにかして、それを他人に支持されることで、はじめて自分を認める。

父の最後もなにかしようとしながら行った。
いったい誰に認めてもらうために?
人ではない、何か大きなものに?

その「大きなもの」は、なにもしていない私たちを認めないのだろうか。



赤ちゃんは何もしなくても、その存在が認められる。しかしだんだん大きくなるにつれて、何かしないと認めてもらえなくなる。役に立つことがそこにいていいこととされる。
そして年老いて役に立たなくなることを怖れる。
役立つことだけじゃない。運動をする。知識を増やす。学ぶ。遊ぶ。ひたすらなにかすることを探す。もっと、もっと、もっと。


「大きなもの」は、そんな条件付きの愛し方をするのだろうか。
父のあの日記を埋め尽くした文字らしきものをみて、
「ウン。努力が見られる。君を認めよう!」と?

それはただ父が思い描く事実だったのではないか。つねに努力していないと自分はここにいちゃいけないんだと思い込んだ強迫観念だったのではないか。
本当はなにかしてないと、心が落ち着かなかったのではないか。

父の最後の姿を通して、人が自分で自分を認められない苦しみを、わたしに見せてくれた気がした。

そういうわたしも何もしないでいると、心がそわそわして、身体がどこかに動こうとする。彼の焦燥感は、わたしにも引き継がれている。

大きなものは、そんなわたしたちをまるっとひっくるめて、ただ受け取っている。どんな生き方をしようと、どんなにずるくても、それはただただ愛してくれる。


父は愛されていた。
それはわたしも同じ。
それを自分自身が受け入れられるかどうか、だ。







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