2015年6月20日土曜日

「つかれた〜」が疲れを強調する




「あ~、つかれたあ~」

駅から家までとぼとぼ歩く。
25分の道のりは長い。身体がだんだん重くなってくる。

まてよ。身体ってどう疲れてる?と、自分の身体のどこがどう疲れているかを歩きながら調べてみる。自分の身体を感じてみる。

肩かな?とさぐってみると、そーでもない。腰?とさぐってみると、まあ、左のほーが何となく。でもさっきは、体全体が重苦しいよーな感じだったのに、いざしらべてみると、具体的なものが見当たらない。しいて言えば、左側のウエストの筋肉が痛いかな~ってぐらいだ。でもそれがさっきの「疲れた」きもちとはつながっていない。

じゃあ、どう疲れているんだろ?なんだかばくぜんとしている。
ためしに「疲れた」と心で言ってみる。がくっと身体が重くなる。
ふとニューヨークでよく使ってた言葉「エグゾーステッド/exhausted」と言ってみる。ちっとも身体が重くならない。なんか自分で演技している感じがする。
なんだこりゃ?

身体の具体的ななにかで疲れていると思ってたのに、いざそれを調べてみると、どこにも具体的じゃない。そして調べているあいだ、なぜか身体は疲れていない。
だけど心で「疲れている」といえば、がくっとくるのだ。
言葉が影響しているとしか思えなくなってくる。

直接の体験だけにとどまっていると、そこに不快感がないのだ。だけどひとたびそれを言葉に置き換えると、とつぜんその不快感が形になって現れてくる。
同じ言葉でも私にとっての英語は、単なる記号だけでしかないのかもしれない。でも「疲れる」という日本語は、長年使い続けたことによる私の心と身体にしみ込んだ、なにかなんだろう。

今を生きるとか今こことかいうのは、きっと今、この瞬間にある私自身が体験しているものだけを味わうことを指しているんじゃないだろうか。それを言葉に置き換えた瞬間、その言葉に付随するありとあらゆる記憶がごちゃまぜになったものを引き寄せてしまう。だからもっと疲れさせてしまうんじゃないだろうか。

だからほら、この「疲れ」についてこの文章を書いている今も、なんだか身体がだる~いもの(笑)。


絵:「小仏川カッパ/つかれたー」

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