苦しいことが起こると、それを変えようとする。
いやなことがあると、それを変えようとする。
イヤな人がいると、さけようとする。
人はなにかを変えたりすれば、しあわせになるとおもっている。
だがたとえ変更に成功してしあわせになっても、つかのまでしかない。やがてまた気に入らないことが現れはじめる。
この習慣は、小さいときから「いけないことは正すべきこと」とおそわってきたからだ。
このいけないことは正すというアイディアが、人の心をどれだけ苦しくさせているのかを考えてみる必要があるとやまんばはおもう。
わしらはほとんど無意識に、なにが正しくて、なにがまちがっているかを考え続けている。
まちがっているなら、どう正すかをひたすら考えている。
自分で自分を正したり、他人を裁いて正そうとしたり。
だが自分は変えられても、人は変えられないという葛藤が現れ、それに苦しむ。
ああ、これは他人を変えようとするのがいけないのだとおもい、そういう自分をまた正そうとする。しかしつい習慣で人を裁いている自分を発見し、ああ、まだまだだ。。。などとまた自分を裁く。
そういうことをあたまの中で、えんえんとやっている。
どーも人は、「これがいけない」とおもえばおもうほど、そっちにひっぱられて、その「いけない」事は巨大化していくよーだ。
飲んじゃいけない、と思えば思うほど、飲みたくなるし、仕事さぼっちゃいけないと思えば思うほど、さぼりたくなる。これ、やらなきゃ、と思えば思うほど、やりたくなくなる。
その思考のクセとゆーか、システムとゆーか、からくりのよーなもんを、わしらは誰にも教わって来んかった。
やるなといわれれば、やりたくなり。
やれといわれれば、やりたくなくなる。
なのに、それをムリヤリ変えようとする。正そうとする。
そもそも苦しい事は変えなきゃいけないのか?
変えようとするから苦しいんじゃないのか?
苦しさを味わっちゃいけないのかい?
その苦しさの中にいてもいいんじゃないかい?
自分に正直に、「私は今苦しんでいるんだ」と感じてみたらどうだろうか。
全身脱力で、苦しさのお風呂につかるのだ。
だれかを責めることをやめて、ただ苦しさだけを全身で味わう。
全身脱力で、苦しさのお風呂につかるのだ。
だれかを責めることをやめて、ただ苦しさだけを全身で味わう。
苦しさは、その人が越えていくヒントが必ずひそんでいる。
人なんかどうでもいいんだ。
人を変えたらしあわせになるなんて、うそっぱちだ。
自分がなにかを抱えて離さないから、それを教えてくれるために他人がいる。
その他人を通して自分のなかにあるなにかを見せてくれているようなのだ。
一体そんなことを誰がやっているんだろう?だけどそれは宇宙の恩寵のように思えてくる。
一体そんなことを誰がやっているんだろう?だけどそれは宇宙の恩寵のように思えてくる。
そのなにかを知るためには、自分の感情に正直になる事だ。ネガティブな感情を持っている自分を見つける。そしてそれを味わう。
その先には、あなたがこれまで知らなかった自分を発見するだろう。
今までにない感覚や、気づきがあるだろう。
その連続をするうちに、何かが自然に変わっていく。ほどけていく。これまで苦しく思っていた事が、なんでもなくなってくる。
するときっとおもしろくなってくるはずだ。自分の中にはまったく知らない自分がいる。
いや、じつはちいさいとき、ずっと知っていた自分だ。
大人になるために、いったん忘れてきた自分だ。
ほんとは、息するよりも近いところにいる自分だ。
世間の常識とか、価値観とか、そんなものに捕らえられて小さくなっていない、オリジナルのパワフルな自分。自分と呼べないような存在。。。
世間の常識とか、価値観とか、そんなものに捕らえられて小さくなっていない、オリジナルのパワフルな自分。自分と呼べないような存在。。。
絵:小仏川カッパ/もう、ムリ。
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