2010年6月27日日曜日

冷たい私





町会の人と会話をしたことを思い出している。
一人は私が町会に協力的であることを素直に喜んでくれているが、もう一人は私を疑っている。「なんでこんなに協力するのか?何か下心でもあるのか?」と言う顔をして私を見ている。彼女は苦労して来た人だ。頭の中ではいろんな思いが渦巻いているのだろう。私はそんな彼女の様子を疑いをはらすでもなく、ただ観察している。そのとき、自分がその人を冷笑しているのに気がついた。彼女の複雑な思いを知っていると言うだけでなく、それに対してどこかで笑っているのだ。なんという残酷な人間なのだ?私は自分の残酷さに気がついてぞっとした。

この残酷さは小さい時に身につけていた。
毎日のように同級生や親に殴られけられ罵倒を浴びせられ続けると、人の心はどうにかしてそこから逃げようとする。その逃げ道が「冷笑」だったのではないか。殴られながら、自分もその人と同じ残酷な気分になって、自分をいたぶりその場をやりすごしていく。私の自己嫌悪のはじまりはたぶんそこだ。人から殴られ罵倒されるほどの、できそこないの私。ちいさな私はそれをそのまま受け入れることは苦しい。だからその私をあざ笑うことによって自分を自分から突き放す。玄関を転がり、地面に這いつくばる自分を「なんてぶざまな存在なのだ」と上から見下ろして冷笑するのだ。

それはダンナとケンカする時にも現れる。相手をしらずしらず冷笑している。自分がしたことを真正面から見るのではなく、冷笑してバカにする。そんな行為は相手にまったくもって失礼なことだ。だがそうやって私は今まで自分を守って来ていたのだ。なんという卑劣なやり方だ。

人はあらゆる方法で自己防衛をする。人と何かトラブルがあったとき、声に出して言うのも、心で言うのもほとんどが言い訳じゃないだろうか。
「私だけが悪いわけじゃない。あんただって。。。」
しかしなぜか人はそこから先には進まない。心は自分がやったことを自己弁護し、正当化することでいっぱいになる。だが一番最初に起こった出来事は、何かしら摩擦があったと言うことだ。その摩擦の原因を真正面から見るのは実は怖いのだ。自分自身を見る事になるから。それを避けるために一生懸命正当化する。要するに自分で自分を納得させようとするのだが、心のもっと奥ではそれが解決方法でないのをしっているので、心がまとまらない。かくして延々と自己弁護を心で繰り返すことになる。

そんなこと、たった一人のほんのちいさな抵抗かもしれない。しかしそれはすべてに通じている。それをちょっと大きくすれば戦争になる。今のこの世の中は私たちの心が現れている。しっちゃかめっちゃかな事件ばかりである。完全に混乱している。それはひとえに自分が混乱しているからだ。私の残酷さが戦争をつくっているのだ。。。

何かの摩擦が起きる時は必ず何かを考える瞬間をもらっている。自分が行った行為を正当化することばかりに時間を費やしていても何も生まれない。自分がやった行為を真正面から見ることだけでいいのだ。すると素直に「あ、それはわたしがまずかったな」と気がつく。そうすれば心の中に何かがストンと落ち、言い訳と正当化でいっぱいになることはない。


絵:つくしのクレイジーマップ/カイロ、イスラエル(掛け軸状になっている)

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

言い訳探し。そうなんですよね。
言い訳があるうちは、落ち着いてられるけど、ありゃ?こりゃまずい!言い訳できない!!
ってなると、もうお腹痛くなっちゃう・・。

つくし さんのコメント...

あはは。
つまり逃げ場を失って、おなかに逃げ場をつくっちゃう?