2010年6月1日火曜日
自殺について考える
自殺について友だちと話し合っていた。
一人は自殺は悪い事だという。なぜかというと、残された遺族の人々が大変な思いをするという。JRに飛び込みゃ、JRから損害賠償(1線につき)1億円の請求が届き、一生かけて払い続けなければいけないし、近所の人に白い眼で見られ、お葬式もちゃんと行えない、それよりも心身をやられる等々(非常に現実的視点)。
もう一人曰く、キリスト教は自殺は悪となるが、仏教では悪い事としてはいないという(相対的視点)。たしかに、日本には切腹を命じられるのは、名誉とされているし、戦争では自ら突っ込んでいって死ぬをいさぎよしとする。捕まって捕虜になるよりは海に飛び込んだ方がいいとも。
スピリチュアル的にいえば、人生は決まった運命にそって生きるのだから、それを中断してしまう事は、その人にとっての学びをやめてしまう事になる。だから罪深い。いや、罪深いとまで言わなくとも、学ばなければいけないことがあるから、それをやめると、また生まれ変わっても同じ問題がやってくる。どっちみち同じ問題に巡り会うのだから、今乗り越えねばならないとも。
私を含め3人ともそれぞれの意見は違えど、どこかで自殺はイケナイことと思っているふしがある。なぜか。
家に帰って考える。
今の時代に切腹や戦争での自決はない。それらは必要に迫られて行ったこと。今の時代の自殺はまるでその内容が違う。人生楽しくって自殺する人はいない。自分の人生がいやになって、苦しくって、そこからのがれる手段としてえらんでいる。「切腹を命ずる」とか「お国のために死す」わけではない。どっちかというと自分の苦しみから逃れると言う個人的な理由なのだ。だから3人ともどこかで「自殺~?オッケーよ!」とは思えず、奥歯に物が挟まったようなモニャ~っとした気分で「なんだかイケナイこと」のような気がしていたのだ。
苦しみははかりにかけることは出来ない。あの人の苦しみは35キロで、この人の苦しみは48キロだから、この人の方が苦しみが大きい。とはいえない。だけど測れないから、測れないがゆえに、いや測れないことをいいことに(?)「おれの人生は誰よりも苦しいんだ!」と思ってしまうのだ。
そもそも苦しい原因は「こうであって欲しい」という願望から来る。その願望どおり事が運ばないから苦しいのだ。願望があるということは、今はそうでない状況があるということだ。そうでない状況とは「辛い」状況なのだ。なぜ辛いのかと言うと、他と比べるからじゃないだろうか。「あいつはいつも楽してやがる。それにくらべておれは。。。」ともんもんとする。しかしそのあいつの方も「ああ、なんて僕の人生は苦しいのだ?」と思っているかもしれない。誰も彼もが外と自分をくらべて辛くなっているのだ。
たぶん、もっとたどれば、こんな人生と思うのは、理想の人生があったはずだ。「僕ちゃん、大きくなったら総理大臣になるのよ」とか
「うんとお勉強して立派な人になってね。ママ期待してるから」
などと言われてその気になったに違いない。不幸にも総理大臣は日本に一人しかなれない。といってもこのところの日本のように1年でころころ変わる総理大臣の席もあるが。そうはいってもひと人生のうちで両手で数えるくらいにしかなれないのだ。ということはほとんどの人が挫折を味わうことになる。ま、だんだん理想を落としていくとしても、どこかで
「ちゃんとした人にならなければいけない」
と思い込んでいる。森進一の『おふくろさん』を聞いて
「おれもそのうち、世の中の傘になれよ」とおもうのだ。
そういう理想の姿と現実の自分を常にくらべてしまう。
「こんなはずではなかったのだ!うお~、どーしてくれる!」と頭を抱える。
たぶん意識にもあがらないくらい奥の奥の方で、ありとあらゆることをくらべている。くらべるから苦しさはもっと広がる。しかし世の中には「ほれ、ほれ、くらべろくらべろ」と洗脳するものであふれている。
「お友達に差をつけちゃう、素敵なメークアップ術!」
「勝ち組になりましょう」
一見やさしい言葉のように聞こえるものの背後に「人と差をつけて優越感にひたれ」というおそろしー悪だくみが組み込まれている。優越感にひたれ続けていればいいが、そんな感情はなんてことないことで、簡単に劣等感へと変わる。コマーシャルのコピーにはそんな言葉が何気なく入れ込まれている。そりゃそうだ。買ってもらわなければいけない。その購入意欲をわかせるには、そこに優越感をもたらす心理的引き込みが必要だもの。しかし人はそれを無意識に聞いている。知らない間に洗脳されている。「お友達に負けたくないわ」と思い始め、戦闘意欲をかき立てさせられる。そうやって知らない間に自分と他人をくらべて競い合ってしまうのだ。そして意識の上にあがってくるのはたいてい辛いことだ。
私も畑で野菜が生長せず頭を抱えたのは、他の畑とくらべているからだ。あっちの畑は野菜が大きいのに、ウチのは小さいなどと。くらべなきゃ、ナンも葛藤は起こらない。小さいとも思わず、そのまま現実を受け取る。
人生の葛藤は、比較によって芽生え始めるのではないだろうか。比較するとは諸刃の剣である。子供が大人になるまでの成長過程には成長を促してくれるだろうが、大人になってのそれは苦しさをも生み始める。くらべると言う心が一人歩きし始めると勝手に暴走し、比較の親分さんになる。気持ちが弱くなってくると、その親分さんの暴走をとめられず、自分の現実を受け止められなくなるのではないか。自殺する人たちも、その心中は自分と何かとをくらべることでいっぱいだったのではないだろうか。
絵:カットイラスト
登録:
コメントの投稿 (Atom)
6 件のコメント:
外資系の半導体営業っていう狭い世界にいますと、飲み話にしばしば不幸自慢が始ります。
「うちの会社はここがダメ!」
「いやいや、うちの会社はもっとダメ!」「いやいやいや、うちの会社はここがダメダメ!!」
って感じ。
ただ、人間って他人と比べ初めて、初めて自分自身がわかる。ってことないですか・・。
日本人は、誰かが自分のことを卑下すると、いやいやそんなこたあない、うちだって、いやいや、おたくにかぎったことではない、うちだって。。。とお互い謙遜し合って「わはははは」と笑って丸くおさまるというへんな民族である。
逆をやると、ものすごーくKYだとケーベツされる。
ぱぱさんのいうように、比べることで自分を知るといういいこともありますよね。
比べると言う道具をどう使いこなすかで、人生の生き方が変わってきますよね。
劣るってのはまああたりまえだと思うけどなあ。自殺の場合、2つ以上のとてもたいへんなことが重なると引き金に指がかかる気がする。
絵描きがガンになって絵が描けなくなって、最愛の妻に逃げられるとか。
どっちかならたいていはどうにかなるよ。
一つで自殺するようなやつは、最初から死んでるようにさえ思う。重さにもよるけど。
ごめんね。私も言葉が足りないね。
もちろん、とても大変なことが2つ3つと重なるほどに引き金を引いてしまうよね。
わたしゃ、そもそも人が幸不幸と感じる出発点はどこにあるのかということが言いたかったのです。
「大変なこと」と思う心の基準はどこにあるのかと。
人は判で押したように癌=不幸、離婚=不幸と条件反射のように瞬発的に感じてしまう。そして感情の渦の中に入り込んでしまう。しかしその基準はいったいどこから来たのか。生まれて来たばかりの赤ん坊にその考えはない。この世界に生きている間に親に教わり、テレビで知り、伝統で覚えして、その基準を作っていくんではないか。そしてその基準と比べて自分を不幸だと思うんじゃないだろうか。
わたしゃ、その最初の心の動きを書いてみたかったのだ。
それはあまりにも無意識的に感情の渦に入っていく自分を外から見るために。
不幸イコール「なんか不満足」ってことかなぁ。
自分の思ってる事やら、物やらお金について満足できない。
ただ、今16階で働いていますけど、ここから飛び降りるのに、勇気いりまっせ。
生半可では思い切れない・・。
飛び降りんでもえーでえ〜〜〜。
そんな勇気いらんいらん。その勇気を畑に使いましょう。
おっしゃるとおり、不幸は不満足なんでしょね。
こうあるべき姿でない、自分をなげく。あるがままになかなか委ねられない私たちがいる。
コメントを投稿