2009年3月6日金曜日
泣きたい気持ち
最近、気になる事がある。
人がやたら人前で泣いている。
テレビを見ると、みんな泣いている。飯島愛さんの告別式でも、いい大人が号泣している。百数年も続いた老舗の会社がつぶれると言っては、若社長が従業員の前で号泣している。
ほんとに愛ちゃんの事で泣いてるの?ほんとに従業員の事を思って泣いてるの?
なんとなく、その人たちは自分自身に泣きたい気持ちがあるから、その場をお借りして泣いているんじゃないかと勘ぐってしまう。
そりゃ、泣くことじたいは悪い事じゃない。世の中つらいことばっかり。泣くことで、そのつらさが癒され、ストレスも解消できる。という利点がある。でもさー、だからといって人前で、ああも号泣することはないとおもうなあ。
日本人は、亡き人に思いを馳せ、苦しさをじっと胸の内に秘めて、ほろっと泣く。そして声を上げて泣きたいときは、一人で泣く。私らの時代まではそういう美意識があった気がする。けど最近は、何でもかんでも感情がおおげさに表現される。うれしいと言っちゃあ大騒ぎ、悲しいと言っちゃあ、大泣き。許せないと言っちゃあ、恨み節。
これは「ちょっと西洋風に、表現を大きくしてみました」ということ?西洋ナイズドスイミング?
私はこれを「感情過敏症」と呼んでみる。感情という花粉がそこらにぷよぷよと浮いていて、人の鼻の中に入る。そこで「へ....、ヘーーーーックション!」と反応する症状。
人はいつも自分の感情に意識がある。どこかにうれしいことやら悲しいことやら怒りたいことを触発してくれる素材がないかとアンテナを張り巡らしている。で、ぷよぷよとやって来た「感情花粉」にヤラレルのだ。これは花粉症に似ている?
でも昔はそんなに自分自身の感情に意識が向いていただろうか。むしろ、それをしない方向に生きていた気がする。だから日本人は黙ってサッポロビールだったのだ(なんのたとえじゃ)。それは、そこに心を置いた時、ろくなことがなかったという知恵があったからではないだろうか。
案外と、うれしいという感情は、あまり心に長くとどまり続けないけど、悲しいやら憎らしいやら腹が立つことに、心はずっととどまりたがったりする。
「あいつ、憎らしい。あんなやつがいなけりゃ、会社はもっと楽しいのに」
「なんでメール返しがないの?あたしのこときらいになったんじゃないの?」
「このままじゃ、あしたにでもリストラされるかもしれない。そうなったら一家心中だ...」
そんな言葉が現代人の心の中で四六時中渦巻いているんではないだろうか。だからなんでもないことに過敏に反応する。あいての何気ない一言に傷つく。
それは、いつも自分の心の反応に常に意識があるからではないか。いつどこで傷つけられるか分からないから絶えずいつも神経を尖らせている。
ニューヨークでは肉体的にいつどこで傷つけられるか分からないから神経をはっているもんだが、ここ日本では、心がいつどこで傷つけられるかと神経をぴーんとはっている人たちがいっぱいいる気がする。ふはははは〜。って、笑い事じゃないぞ。
日本に帰ってきた時、なんかへんだとおもった。なんか前に住んでいた日本と雰囲気が違うと。ずっと、なんでかわからなかった。でもだんだん、日本人が自分の心に比重をおきはじめていることに気がついた。いや、心を大事にするということならわかる。たぶん、そういう意味で「心の時代」と言われてきたにちがいない。
でも同じ心でも、今の心の感心ごとは「傷つく」ことなのだ。
このネガティブな感情はたちが悪い。ほおっておくとそれは増幅していく。最初の取っ掛かりはなんでもないことなのだ。そこからどんどんあれもこれもと広がっていく。あの時ああされた。この時ああ言われた。やっぱりあいつは悪魔だ..!と心は暴走する。
今、それが増幅された人たちがいとも簡単に人を刺す。
「どうしてそんなことをするのか分からない」
と、インタビューを受けた人たちが、犯人に対して人ごとのように言う。ほんとうにそうだろうか。その行為まで行かなくても、そこまで恨んだり怒ったりしていないと誰が言える?ほんの一線を越えるか、越えないかの違いでしかないかもしれないのに...。
そしてその犯人を見て「許せない」と思えば、またそこでネガティブな心にポッと火がつく....。
だから心というものは気をつけていないといけない。今、人々の中でそんな感情が無防備になっているようにみえる。好き放題暴れさせているように。それに心でどんなことを言ったって、誰にもとがめられはしない。こりゃ、ある種の快感になったりするんじゃなかろうか。顔さえニッコリしてればいいんだもの。
でも心に一人歩きをさせるとろくなことがないのだ。
昔の人はそのことをよく心得ていた。心はコントロールしなければいけない魔物だということを。そもそも心とはそういうものなのだ。だからあまり感情をあらわにしなかった。あらわにすると、それに飲み込まれるのがオチだと知っていたから。
たとえ心の中でおおさわぎしても、そこに答えは見出せないということも。
ひとしきり泣いたらやめる。ひとしきり怒ったらやめる。やめるという意志力がいる。
誰も心を傷つけられない。傷ついたーっと思い込んでいる自分がいるだけだ。ほんとうは気にもしなけりゃ、なんてことないのだ。なんてことがあるのは、そこにプライドがあるからだ。私もそのちっこいプライドで右往左往した。
でもそれは一瞬のうちに変化する。「じゃあ、今までの感情は何?」とおもうが、人の感情なんてそれっくらいものんだってことだ。増幅することも出来るし、ぽっと消すことも出来る。
火のように怒り散らしている大魔神の私に「はい、お茶とおまんじゅう」とあたえたら、あっという間に縁側にすわるおばばになるのだ。
絵:「窓の雪」
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2 件のコメント:
初めてお邪魔します。こんな風にコメントできるって初めて知りました。これからも口出しさせていただくかも知れません。お許しください。
私は、毎日花粉に泣かされています・・・。
ほんとに泣きたい気持ちです。
年取ったからか、他人の(特に同僚の)気分に左右されないようになってしまいました。
一抹の悲しさを感じますが、外資系の方々の主張の強さに付き合うだけの気力も衰えてます・・。なんで、外資系の皆さんは自分の気持ちを押しつけたがるのかな。ああぁ。って感じです。
まいううーばばさま、いらっしゃいませ〜。
きょうもまたふんだんに飛びまくっていますねえ、花粉!どうでしょうか。こうなりゃ、全身に花粉を絡めてひたってしまうというのは。逆療法ですな。抵抗するより、あびてしまう...あ、だめ?
私の勝手な説「花粉症の人は気い使いの人が多い!説」。だからまいうう〜ばばさまも、外資系の人々に気を使い、花粉症になる....。
ということは、まいうう〜ばばさまも、「外資系の人』になりゃ、治るのかも!
と、勝手なことを言いました。
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