2009年3月1日日曜日
鉄しか知らないウチュー人
この世に物質というものは、存在しているのだろうか?
私は小さい時からよく、自分の目の前に見えているものは、自分が見たいものだけがそう見えているだけであって、本当は何もない。もしくはまったく違う世界が展開しているのではないかと考えてしまって、心がぷるぷると震えたことがあった。
たとえば、この地球にある宇宙人が円盤に乗ってやってきたとする。その宇宙人に『鉄』という素材しか見えなかったとしたらどうなるのだろう?(その円盤はたぶん鉄で出来ているのだ。鉄だけで空を飛ぶかどうかはしらないが)
その宇宙人の目にうつる東京の風景は、鉄の骨組みしかない箱の形の乱立にしか見えないだろう。じゃあ、その宇宙人が道路に降りたらどうなるのか。鉄しか見えないとしたら、道はどんな風に見えるのか。土に入っている鉄分しか見えないとしたら、細かい粒子の霧のような地面に見えるんじゃなかろうか。おっかなくって、おちおち地面に立っていられないはずだ。
じゃあ人は?
人とすれ違ったって、わからないかもしれない。いやいや、血液には鉄分がはいっているぞ...。だとしたら、血液の流れしか見えない.....?き...きもちわるいなあ...。
じゃあ、木はどうなる?
鉄しか見えない宇宙人に、木を説明しても分からないじゃないか。だいたい木の前にたってみたって、木をさわれるのだろうか?見えないのにその存在を手で確認できるんだろうか。気がつかないでまっすぐすすむと、木にぶつかったりするんだろうか。その疑問はずっと私をとらえていたが、大人になって最近おもった。
きっと、触れないのだ。だって、鉄しか認識していないのだもの。
と、いうことは、認識していないものは、触れられないということなのだろうか。
南アメリカにスペイン人が海から船で侵略しにきたとき、その土地の原住民には、船が見えなかったのだという。だから彼らは、スペイン人が海の上に立っていて、すーっと浮かんで海の上をやって来たように見えたのだ。それでびっくりした。「神々がやってきた!」と。
だからすんなり征服されたともいう。
つまり、原住民の頭の中には「船」という存在はなかったのだ。その認識がないゆえに、船が見えなかった。だから浮かんでやってきたと思ってしまったのだ。
この話を聞いて、原住民はばっかだなあ〜、あはは〜、なんて笑っていられるんだろうか。現代人は何でも知っているとたかをくくっていられるのか?今だ認識をしていない存在や物質はないと、だれがいえるんだろうか。
いや、原住民だからこそ、船以外に私たちたちより知っている何かがあったのかもしれないのに。
本当にこの世は私たちが認識している世界のままなのだろうか。よく考えてみたら、となりの人がゆびさす赤いバラを「これは赤い」というものが、ホントに私が思う赤い色と同じだと、どうやって確認するのか。
「これはオランウータンです」というオランウータンらしきものが、私が見ているオランウータンと、となりの人が見ているオランウータンと、はたして同じなのか。それさえも分からないではないか。
およそこの世で物質と呼ばれるものが、私が思う物質と、となりの人が思う物質というものを外から相対的に見ることなどできるのか?すべてが自分からしか見えないのに、だ。そう、人は主観の中でしか生きられないのだ。
そんなふうに考えはじめると、すべてのことが曖昧になってくる。その曖昧さを認識することは悪いことではないかもしれない。自分の足元がぐらつくことは、悪いことではない。
信じきって逆にがんじがらめになっているこの世の認識を(常識ともいえるかもしれない)解放する糸口になるかもしれない。
そうすると、この世に物質というものが存在しないのではないか?と言う冒頭のアホなアイディアも、まんざらすてたものではない。
その存在しないかもしれない物質を日々作り続けている私。あなたは私が作った「物質」をどんなふうに認識してくれるのだろうか。
「つくしの小さなイラストレーション展」が、今日からはじまります。
絵:アリゾナにむかって
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