見えている世界は自分の心の結果が現れている。
変えるのは、その見えている現象ではなく、心だ。
最近整骨院に通っている。
結果があまり見えてこない。
「あの病院、ダメなんかな?」
まわりの別のクリニックに目がいく。
あっちのがいいのかな?いや、その向こうにあるやつの方かな?
その時コースの今日の文言が浮かんだ。
「兄弟を信頼する」
あ。そうだった。
先生を信頼しよう。
大事なお金を持ってプールに行く。
大丈夫かな?ついではやめたほうがいいのかな?
コースの文言が浮かぶ。
「防衛しないことの中に、私の安全がある」
あ。そうだった。
防衛しないでいよう。
この二つの思いは、
はっきり言って「君、バカなの?」というたぐいだ。
間違った選択をしちゃいけない。
自分でなんとかしなきゃいけない。
正しい整骨院を選んで、正しく直してもらわなきゃいけないのだ。
間違いがないように、自分がちゃんと防衛しなければいけないのだ。
自分が決めて、自分がちゃんと守らなきゃいけない。
それが大人ってもんだ。
そう教わってきた。
ところが、兄弟は疑うものではなく、信頼するものだ。
防衛しようとするから、攻撃されるんだ。
というコースの考え。
真逆じゃん!
私たちはどうしても形の結果を求める。
だからあの病院この病院とさまよう。
いい病院を自分で探し当てなければ!と。
しかし「君、バカなの?」を実行すると、ギクシャクしなくなる。
いい病院を探して露頭に迷うこともない。
安心してその場にくつろぐことができる。
いやいや。
学校のせんせーは、そんなこたあ言わねえ。
「せんせー!つくしちゃんが、バカなこと言ってますー」
と、優等生にチクられる。
心が原因。
見えている世界は自分の心の結果だということが、ここで生きてくる。
結果は一瞬確認するためにある。
そして即座に原因に戻る。
兄弟を疑ってかかっていることは、
自分で自覚しない限り、自動的にやっている。
そう教えられてきたし、
そうでなければ、そもそもここに生まれてこないからだ。
疑うとは分離そのもの。
防衛とは、敵がいるという信念そのもの。
自動的に疑い、防衛、攻撃を繰り返しているのが私たちなのだ。
その自動的に疑っている、その心を見る。
自動的に分離したがっている、その心を見る。
外に敵を見つけたがっている、その心を見る。
その心を見なければ、永遠に分離の中に居続ける。
永遠に鏡に映った敵と不毛な戦いをやり続ける。
それが鏡だとわかった時、戦いは終わる。
私だったんだ、と。
私が恐れて、私が私と戦い続けていたんだと。
だから私の心に帰る。
分離させたがっていた心に。
敵を欲していた心に。
分離することが、疑うことが、戦いという防衛をすることが、
賢い生き方だと教わってきたのは、
そもそもそれを教えたせんせーもまた分離を背負って生まれてきたからだ。
そうすることが正しいと信じてきたからだ。
そのせんせーを赦し、
「君、バカなの?」を生きていく。
2 件のコメント:
うむ…
腑に落ちた気がする
それは素晴らしいね。
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