今ここに生きる。
ポピュラーになった言葉だが、
その意味はとんでもなく深遠なことだった。
奇跡講座のワークブック135
「自分を防衛するなら、私は攻撃される」
という文言の中の一言に釘付けになった。
全文は
「神に対するあなたの現在の信頼もまた別な防衛であるが、
それは一すじの悲しみの跡も残さず、
喜びだけが絶え間なく増え続けるような、
何ものにも乱されない未来を約束する防衛である」
この「現在の信頼」というところにピタッと心が張り付いてしまった。
現在を信じるって何?
わたし「今」を信じたことあっただろうか?
ないない。
心は絶えず、過去と未来を行ったり来たり。
あれはどうだった?
そのあれが、こうなったらどうする?
ちっとも今にいられない!
そこでやっと気がつく。
自我は今が怖いのだ。
今にいてもらっては、自分の出る幕がない。
過去と未来は具体的なこの世界の話。
具体的に人物が浮かび、出来事が浮かび、状況が浮かぶ。
過去は嫌なことでいっぱい。
だから未来にそれがなくなるためにはああしてこうしてと。
時間はリニア式に一直線に見える。
左側にながーーーーい過去があって、右側にながーーーーい未来がある。
で、今は?
「、」ちょん。
そう。自我にとって今は、ちょん。
現在のちょんを信頼する。(なんでやねん)
今には具体的なものが何も出てこない。
物語が動き出した途端、それは時間になる。
時間と空間は自我のものだ。
つまり自我にとって、過去と未来は物語上なくてはならないアイテム。
ちょんは、あっては困るスルーアイテムなのだ。
むしろ「ちょん」程度にしておきたい(笑)
ところがコースは、そこにこそ一点の悲しみもない、
喜びだけが絶え間なくあり続けるところなのだというではないか。
私、現在を信用してなかったわ。
いやいや。考えたこともなかったわ。今を信用するなんて。
して、今を信頼してみる。
。。。
なんだか安心する。
今の信頼と一緒に歩いてみる。
ちょっとゆっくりになる。
だけど楽になる。
買い物をして荷物を持ったら、
今までは、家に帰り着くこと、先のことばっかり考えていた。
で、帰り着いたら、今度はまた次の未来のこと。。。
ほっこりするときなんかない!
でも今と一緒にいると、帰り道が楽しい。
朝起きたとき、神と一緒にいるイメージをしている。
神といっても人物ではない。形のない何か。
その中にじーっと浸っていると、
胸の後ろを軸にして、下を向いた扇が開いていく。
木でできた骨の部分は私。白く貼られた和紙は神。
扇が徐々に広がって光りだす。
最初90度ぐらいだった。毎日やるほどにどんどん角度が広がっていく。
なぜそんなイメージがあるのかわからないけど、とても心地よい。
今にいるとは、そんな感じなんだろうか。
自我ではなく、神といる時間。
自我といるときは、言葉だらけ。
「こっちへおいでよ、こっちの方が甘い水だよ」と誘っている。
しかしそのおしゃべりは、重く苦しいもの。
しかもおしゃべりが終わることはなく、
そこには何の解決もないことを知り始めると、
その声を信用しなくなってきた。
言葉のない今。沈黙の中にこそ答えがある。
今にいるとは、神とともにいることなのだろう。
そして神とともにいるとは、
真の答えとともにいるということなのだろう。
今がちょん、ではなく、
今とはとんでもない秘密を持った、唯一の脱出口である、
「ガチョーーーン!」な今なのだ。
絵:「ぽんぽこたぬき」
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