早朝、目が覚めた時、頭の中がぶつぶつ文句を言っている声を聞く。
寒い。風邪を引くんじゃないか。
あれはどうするんだ?これはどうやるんだ?
あの問題はどうやって解撤するんだ?
などなど、言葉にもならない問題定義を次々にだしてくる。
それを聞いて、
ああ、まただ。まだ私はこんなにも問題を抱えて。。。。
ん?ちょっとまてよ。
これ、本当にそう?
聞こえる声を疑った。
これ全部ウソじゃないの。。。?
神の愛を妨げている障壁を取り除く。
この声こそが、その障壁。。。じゃね?
その声を、まともに聞く必要があるのか?
最近、二つの見方があることに気がついてきた。
一つは、いつもの見方。
あーじゃない、こーじゃない。
どーせ私が悪い。とか言いながら、やっぱりあいつも悪い(笑)。
もう一つの見方は、
あれもいいし。これもいい。
みんないいんだ、そのまんまで!
前者は、自分の中に罪を感じている。
その罪を抱えているがゆえに、自分や他人を裁く。
問題を見つけて、それを解決するために躍起になる。
後者は、自分に罪を抱えていない。
自分に罪がないので、人にも罪を見ることがない。
だから問題も見つけられない。
そうすると、何もかもが楽しくなって見えてくるのだ。
あれもいいし、これもいい。
ああ~楽しいなあ~~と。
前者が持っている罪は、自覚がないことが多い。
自我はそれに気づかれては困る。
まさかそれが自我の原動力だなんて気がつかれたら、ヤバイのだ。
正体がバレて、消えるハメになる。
だからできるだけひた隠しされる。
今朝の私の中に聞こえた声も自我が誘ってくる声だ。
お前には罪があるぞ~~。
どうだ~~~。こんなにも問題を抱えているぞ~~って。
一見根拠がある問題だが、
自我を選べば、それは問題として存在するかに見える。
しかし聖霊を選ぶことが増えれば増えるほど、
それが実在していないことがだんだんわかってくる。
神の愛の現れを妨げるものとは、自我を選んだ時の心だった。
その自我の目で見た世界のみが、錯覚だったのだ。。。!
私はここにいていいのか。
いていいと言われるためには、あれをしてこれをして。。。
それは自我の吹聴だった。
私は何をしても、しなくてもここにいていいのだ。
それは神の愛の現れなのだから。
絵:「天狗舞」
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