心の中の声は、絶えず自分を正当化している。
あの人がこう言ったから、私は傷ついた。
あの人がこう言ったのは、私がああ言ったからだ。
だけど、だけど、そもそもあの人がああいう態度だから、私はああ言ったのよ。
私がどれだけあの人に。。。。
考えもしないのにどんどん出てくる言葉。
私はその声に沈黙した。
その声はいくらでも言い続ける。
しかしその声に答えはない。
それは自我の声だからだ。
自我は自分で答えを見つけ出さない。出せない。
なぜならそれが自我の目的だから。
自我はそうやって私たちの心の中にいくらでも忍び込んでくる。
そうやっていつまでもありもしない問題に取り組ませようとする。
私はその声に沈黙した。
沈黙で答える。
沈黙が満ちていく。
自我の声はとても具体的だ。
人がいて、自分がいて、喋った言葉や態度があって、状況があって、物があって、問題があって、、、。
すべてが具象の中で展開する。
しかしそれは偽物だから具体的なのだ。
具体で示すことで、ここに実在すると証明しようとしている。
ほらここにあるでしょ。
ほら、ここに肉体があるでしょ。
ほら目の前にも肉体があるでしょ。
あるでしょ。見えるでしょ。
だ、か、ら、あるのよ!
あるのだと証明したがっているのは、それがないということだ。
具体の中には苦しみしかない。
答えのない世界でぐるぐる回っているだけの苦の連鎖。
それを見届け、どんどん赦していくうちに、しだいに具象ではない抽象を見つけ始める。
肉体という具象の目で見る世界ではない、
肉体ではない何かで知る抽象。
今までは雲の形をなぞっていた。
どんな形の雲か、それをどうすればいいのかと。
しかし今は、雲と雲の間の何もないものを見る。
沈黙の先に見える光。
静けさの中に満ちてくる光。
忘れていた答えはここにあった。
絵:「見上げた空」
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