やること、すること。
どうやったかってこと。
そのことに重点が置かれる。
だからSNSが受ける。
あれをやったこれをやった。
どう?私って充実しているでしょ?って表現してみせる。
だけどほんとは、そこまで充実なんかしてない。
やって充実したふりをしているだけだ。
私の「5時です。麦汁プッシューっ!」だって、ほんの一瞬のこと。
この世の充実は、ほんの一瞬。
SNSにあげてもう一回喜ぶだけ。
いいねをもらってもう一回喜ぶだけ。
でもほんとは充実なんかしてない。
だからまた「何かやろうとする」。
その繰り返し。
そのうちSNSもまた廃れてくるのだろう。
でもまた別の形の「何かをする」アピールが始まる。。。
これを書いていると、家の外から聞こえてくる、道を歩いている人の声。
「頑張ればできるんだから」
はい。頑張ってきましたよ。今まで。
だけど頑張った結果がコレ。
もっと頑張ればよかったんかな?
まだ足りなかったんかな?
死ぬまで頑張り続けろってか?
それが人生ってものなのか。
ならば私はもう御免こうむりたい。
多分私は、がんばらさせられ続けているんだと思う。
あれ?がんばりさせられ?。。まあ、どっちでもいいや。
欠乏感と罪悪感からくる焦燥感。
まだ足りない、もっとがんばらなくては、もっと充実感を味わって、、、
ほいさっ、えらさっ、どっこいしょ~。
おさるのかごやはホイサッサ~。
ネズミの回し車みたいなもんだな。死ぬまで回し続ける。
それが自我のささやき。
止まったら死ぬよ。回さないと死ぬよ。
いやいや。回してたら死ぬよだ。
ピタッと止まって、ひなたぼっこ。
頑張ってるをする世界から離れる。
外を見ることから内側を見ることに移行する。
形象を重視することから、内側の見えないものを重視する方向に移行する。
形象は罪から作られていることに気づく。
形象を見続けることは、罪を見続けているんだ。
いわば私は水晶玉の中をのぞいている魔女。
その中に私の罪でできた世界が見える。
自分の中に罪悪感があるうちはその世界から離れられない。
だけどその罪を赦すことによって自分の中から罪の意識が徐々に消えていき、
その魅せられていた水晶玉からだんだん離れていく。
そうするとそのまわりにあった光に気づき始める。
そして「なあんだ。私はとっくの昔っからずっと光の中にいたんだ。
いつの間にか、水晶玉の中の闇に囚われていただけだったんだ」
って気づく。
その時、私の中の魔女は消え去り、
何事もなかったかのように、光の中でくつろぎましたとさ。
おしまい。
絵:「Witch」
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