小さい時から、
「はよう。はよう」
と言われてきた。
母にも、学校の先生にも。
何につけてもスローだった私。
今も相変わらずスローだけど、これでも心は
「はよう、はよう。」
と、じぶんに言い続けてきた。
これがまったく「今」にいられないことなのだ、と知ったのは最近だ。
心はいつも、少し先のことを考えている。
水を飲むことを思いつくと、心はもうすでに水を飲んでいる。
しかしじっさいは、
立ち上がる。
台所まで歩く。
コップを手にもつ。
蛇口にコップをもっていく。
蛇口をひねる。
水をコップに注ぐ。
それを口に運んでいき、
傾けて、はじめて水を飲むという行為にいたる。
しかし心は、そういう行為をすっとばかして、とっくに飲んでしまっている。
心は、いつも「ここ」にはない。水を飲みに行くまでの行為は、「カラダが勝手にやってくれるだろ?」と、たかをくくっている。
それよりも重要なことは、目的だ。水を飲むこと。水を飲むことが終ったら、「ハイ!次!次はなに?!」と、矢継ぎ早に、次の目的を探している。
わしらはいつもつねに次のこと、先のこと、未来のことを、考えろ、考えろ、考えろ!って言われてきた。
そしてその次は、それを達成するための方法論を、考えろ、考えろ、考えろ!って、いわれてきた。
それって、つねに前のめりに意識もカラダもなってるってことだ。
斜め前方に、カラダが傾いている状態(笑)。
カラダが前に傾いているから、頭からこけそーになる。だからあわてて右足を出す。一瞬安定はするが、頭はさらに先に進むから、あわてて左足を出さねばならない。するとまたぐっと前に頭が出るので、再び慌てて右足を出す。。。。とゆーことを繰り返しているだけなのではないか?
つねに未来のことを考えているとは、そーゆー状態になっているのかも知れぬ。
「はようはよう」と言われて育つと、はようやらんといかん!という思いが、すべての行為をあせらせるのもそのせいか?
すると行為そのものが手薄になり、おろそかになり、失敗したり、つまずいたりするんじゃね?
落ち着きがないのは、斜め前方の頭を転さないために、あわてて足を出しまくってるからじゃね?
よし。いったん、落ち着こう。
落ち着くためには?
頭をまっすぐ立てること。(あたりまえじゃ)
はやる気持ちを、ぐっとこらえて、今あることに意識を向ける。
「今ここにいる」とは、今している行為そのものに焦点を当てることだ。
今見えているもの、今動いているからだ、今触っているもの、今聞こえているもの、今感じていること、今考えていること。
まさに今、ここで、起こっていることだけに、心を注ぐ。
それは「する」ことではなくて、「ある」ことなんやな。
ただ、そこにいて、ただそのまわりに起こっていることを感じ、味わう。
つまりアホになるってこと?
だな(笑)。
今ここに心を注ぐと、重心がまっすぐになる。
決して前には倒れない。だから余裕を持って、前に進むことが出来る。
じつは心が前のめりになっているだけだった。
その前のめりになっている心に気がつく。ぐっとカラダを起こして、今あることにだけにいる。
するとカラダは勝手に動く。勝手に動いて、勝手に物事は進んでいく。
本当は「私」が「やっている」のではなかったと気づく。
今動いている自分をただ観る。
今感じている気分をただ味わう。
アホになると、物事は自然に進みはじめる。
絵:「うみんば」/スマホケース
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