私たちは、しあわせになる条件を探している。
うまい珈琲を飲んでいるからしあわせ。
ケーキ食ってるからしあわせ。
「~だから、しあわせ」という条件つけ。
未来のためのしあわせの条件つけもある。
「~になれたら、しあわせ」
素敵なおうちに住めたら、しあわせ。
医者になれたら、しあわせ。
お金が入ったら、しあわせ。
わたしたちはなんでかしらんが、無条件でしあわせには、なれないようである。
イヤイヤ。なんにもしないしあわせもあるではないか。
仕事におわれることもなく、なーんにもしない1日がしあわせ。
でも、それも3日たち1週間たちすれば、何だか不安になって来る。
やばい。こんなにのんびりしているばあいじゃないぞ。なんかしなければ。と、なにかしないではいられなくなる。
やばい。こんなにのんびりしているばあいじゃないぞ。なんかしなければ。と、なにかしないではいられなくなる。
実際3日どころではない。1日だって、そのうちなにもしない時間をもてあますはずだ。
私たちは、一瞬しあわせが満たされるとそれに飽きてしまい、次のしあわせを求めはじめる。
たとえうまかろうと、珈琲を何十杯も飲み続けられないし、ケーキも何十個も食べ続けられない。事実それをやれと言われた瞬間、しあわせは拷問になる。はれて医者になれてもそこからが苦しさの連続だし、素敵なおうちは1ヶ月ぐらいで、住んでいるのがふつーになる。
こりゃいったいなんなんだあー。
私たちの心。。。いつもなにかを探しているその心なのだ。
不足感。
これではない、なにか。ここではない、どこか。
『これで満足してはいけない。これで満足してはおしまいだ。人生もっとやれることがある。そうでなければ、お前の人生は路頭に迷うことになるであろう~~~。』
と言う、神のお告げを聞き続けている。
私たちは、自分の心の中で聞こえる声を「自分がいってる」とおもっている。そしてその声は自分の味方だと信じている。しかしよくよくその声の内容を聞いてみると、ある種のパターンに気がつくだろう。
せかす。焦らせる。不安にさせる。脅す。
味方だと思っているから、自分によいことを言ってくれるはずだ。だから焦らせるのは、私のために焦らせてくれるんだ。。。そう思って、あたまの中に聞こえる神のお告げのままに行動し、私たちは、しあわせになるための条件を探し求めて旅をする。
これははたしていつか満たされるのか?
これははたしていつか満たされるのか?
あたまの中の言葉は、いつもそれではダメだ。あれでもダメだ。と言い続けている。
その声は、口うるさい小姑のようであり、こましゃくれた訳知り顔の少女のようであり、もったいぶったくそ坊主のようでもある。
そのことに気づくところから、旅はくるっと方向転換をする。あてのない旅、満たされることのない旅に気づき、元来た方向に帰っていく。
本当は私たちは、何の条件もつけないまま、しあわせそのもののようなのだ。
もともとしあわせそのものだった。
苦悩は、その声にふりまわされているから。
自分の中の声に気づいたかい?
その言葉の内容に、脅しは入ってないかい?
「あなたのためだから。。」というニュアンスはないかい?
そしてその言葉に、あなたはどこかおびえていないかい?
聞こえたとたん、身体がぎゅっと固まらないかい?
それはあなたの味方ではない。
それが聞こえたなら、ただ聞いている。
聞こえるまま、そっとしておこう。
それにあわせて、あわてて行動するのをぐっとこらえてみよう。
その声が、行き過ぎるのをただみていよう。
そんなちいさなことから、盲目的な旅はスピードを落としはじめる。
絵:ミステリーベーパーバック表紙イラスト&カットイラスト
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