2015年7月18日土曜日

天狗の遊びに付き合わされた



アスファルトの通りから、森に入る。すう~っと涼しい冷気がほほをなでる。

先日の大雨の最中、夜、山の方でガラガラと土砂が崩れる音がしたので、それを確かめに森に入ったのだ。
いつもの遊歩道が小川になっている。山に落ちた雨が許容量を越えているのだろう。久しぶりの遊歩道は、昔棟梁といっしょに汗だくになって整備した前の状態にそっくり戻っていた。自然はあっという間に自分たちの姿に戻る。

ざっと見渡してみたが、どこにも土砂くずれのあとは見当たらなかった。
山で時々巨木が倒れる音を聞くと、天狗の仕業だと言ったが、あの土砂崩れの音は、天狗の仕業だったのだろうか。わたしは天狗の遊びに付き合わされたのであろうか。

少し広い空間に、苔むした大きな栗の木が倒れている。5、6年前の台風の時倒れたものだ。美しい緑色のビロードにおおわれた木が、わたしにここへ座れと誘ってくる。
少し腰をかけて、目を閉じる。

いつもよりも大きな音がする川、蝉の声、ウグイスの声。
手に触れる少し冷たいビロードの感触、腕に触れてくるひんやりとした空気。
少しカビくさい匂い、木が朽ちてくる匂い、どこからか漂う甘い匂い。
目を閉じていると、それが外からやって来る音なのか、外から感じる感触なのか、匂いなのかわからなくなってくる。
どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが外なのか、あいまいになってくる。
じっと味わっていると、その音や感触や匂いは、わたしの内側にあるような気がしはじめる。わたしの世界の中にすべてが存在しているように思えてくる。

目を開けると、目の前にある緑色の世界が、一瞬何の意味をもなさなくて、心が戸惑っていた。
が、間もなくすると、目の前の風景が立体的に見え始め、これが木、これが葉っぱ、これが地面、というふうに、意味を持ちはじめた。

人はこうやってすべてのものに意味をつけているのだな。立体的に見えるのはそういうことか。。。
小さい時、こんなふうな見え方をしていたんだとおもった。
大人にこれは木、これは大地、と教えてもらってそう解釈をする。

だがそうやって、私たちは意味の世界に突入していくのだ。
外と自分という分離の世界に突入していくのだ。


アスファルトの通りにもどる。
ムッとする暑さが戻って来た。



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