2013年10月11日金曜日

アナスタシアぶっとび



最近『アナスタシア/響きわたるシベリア杉』という本を読んだ。
ぶっとんだ。ひっくりかえった。ひゃ~~~~~っ、の連続だった。


やまんばがずーっと人間に対して疑問に思っていたことを、あっけらかんと「ハイそーよ」と言ってくれたのであった。

アナスタシアはシベリアタイガの森にひとりで住む人間。服はチュニックという、まあ下着のよーなものだけ。家もなければ、お鍋もない。火もおこしたことなければ、あったかいお風呂に入ったこともない。
彼女に言わせれば、服というシェルターを着れば着るだけ人間は弱くなるそーだ。

日頃何食ってるかとゆーと、食べたい時にベリーとかつまむ。
そーかとおもうと、指をぱちんと鳴らせば、リスが高い木の上からスペシャルなスギの実をもってきてくれる。も一回ぱちんとならせば、皮を剥いでくれ、手を延ばせばその上に乗っかって、リスが口渡しで極上の実を口に運んでくれる。

な、な、なんじゃそりゃあ!なーーーんにもせんでええやんけ。

わしらはおまんま食うために死ぬほどフンソウする。やまんばは日々畑でフンソウする。なのに彼女は、指をぱちんと鳴らすだけでおまんまが食えるのだ。ゆびぱっちん。

彼女は言う。
「この地球は人間のためにすべて用意されている。」
リスは冬のあいだに食べる量の何倍も溜め込む。それを人間に食べてもらうのもまた彼らのよろこびなのだという。


やまんばはねえ。人間ってどーしよーもない生き物だって思ってたの。どー見ても、冷静に見ても、ひいき目に見ても、人間だけじゃん、地球壊してるの。植物も動物も昆虫もみーんなこの地球でバランスを保っている。肉食獣だって、むやみやたらに殺さない。
なのに人間ったらヨー。壊す壊す、使いつくす、いらんもん作りまくる、あげくにやっかいなもんを作っといて
「どこに処理していーかわかんなあーい」
と、ほっぽっておく。
おいおい。おまえら、どーすんだよー、それ。
ってなかんじ。
だけど人間のために用意されてるだあ?どんだけ甘やかしてんだよ、地球さんよ。

でもねえ。
やまんばがずーっと気にしている「沖縄のぼたもちの話」となーんか通じてるんだよなあ。

『あるところに男の子と女の子がいました。彼らは毎日天から降ってくるぼたもちを食べてたのしく生きていました。
あるときふと、「このぼたもちが明日天から降ってこなくなったらどうしよう。。。」
と不安になりました。
そこで彼らは二つのうち一つのぼたもちを明日のために残し、もう一つを二人で分け合って食べました。
それからぼたもちは、二度と天から降ってきませんでした。
おしまい。』

ってなはなし。
ふつー、お伽噺って、ハッピーエンドで終わるじゃん。なのにこの終わりかたはなんじゃ?
つまりその先は、まるでエデンの園から追放されたアダムとイブのごとく、
「それからは二人で食べ物を探して歩きました。」とか「畑を耕して食べるために必死で働きました」ってなことになったって、なにげに言ってるわけじゃん。

これってなによ?

この話が何かのメッセージだとするならば、心に浮かんだ疑問がすべてを変えてしまったということじゃないか?
本当はアナスタシアのいうように、すべては人間のために用意されているんだが、それを
「ほんまにや?」と思った瞬間、
「あ、そーお?」といって、
「ならばそのように」
と、天が人間が思ったように現してくれているのだ。。。としたら。。。。?

じゃあじゃあ、逆もまたしかりってことになる。。。

明日のために残すことは今のニンゲンにとって美徳でさえある。だがこの視点を別のところに変えれば、人生を、天を、信じないことでもある。
ま、ある意味、すごい傲慢。。。

ひょっとしたら、人間は「ぼく、自分で生きてみる!」
と、天から独立してみたかったんじゃないだろうか。

だけど色々やって、ぐちゃぐちゃになったのが今の人間世界。
え~ん、どーすりゃいーのよ~、と泣いているところを、
「もしもし?そろそろこっちむいてみなよ」
って、向く方向を教えてくれてんのが、アナスタシアだった。
本当はニンゲンってすごい存在なんだよって、思い出させてくれている。

結局この矛盾だらけの世界は、
「これが明日降ってこなかったらどーしよ?」
という自我が引き起こした悲劇(喜劇?)だったんか?



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