2010年8月29日日曜日

こわくね?





風邪薬、シャンプーリンス、石けん、除菌、歯磨き粉、化粧水、ニキビのクスリ、UVカット、胃薬、頭痛薬、生理痛、医療保険、自動車保険、生命保険。。。
久しぶりにテレビをつけると、こんな種類のコマーシャルで満たされているのが分る。たいてい、菌の絵を見せられ、こんなにたまった汚いもの、コレで一気に除菌しましょ、とか、痛いのとりましょ、とか、もしもの時のために、という言葉が飛び交う。

なんだかこわくねえか?テレビつけただけでその種類のコマーシャルのオンパレードなのだ。単におもろい漫才見たいだけなのに、その合間合間に「こうなったらど〜します〜?そうならないためにこうしましょ〜」と脅され続けているのだ。クスリも保険も石けんも表向きは「親切」で行われている。しかしその裏は、常に人を不安にさせておいて、何か行動しなきゃいけないと思い込ませる。60や70のおばちゃんまで「シミが出来たらいけないから、UVカットしましょ」と顔や腕に塗りたくる。心はいつもあれしなきゃ、これしなきゃという強迫観念のなかにいる。その価値観は全く知らない間に頭に入り込んで、人々の心を操っているのだ。

私たちは今まったくの2元論の中に暮らしている。
コレはいい事、コレは悪い事、コレは正しい事、コレは正しくない事、得な事、損な事、やってもいいこと、やってはいけないこと。。。
菌はとらなきゃいけないし、UVカットはしなきゃいけない。保険に入らなきゃいけないし、ビタミン剤は飲まなきゃいけない。
人はあまりポジティブな事に心は集中しない。どっちかっちゅーと、ネガティブな事に心は集中する。
その思いは人にも向けられる。「アライヤだ、あの人あんなことへーきでしている」とケーベツする。


一人ジャッジ状態なのだ。自分の中に検事がいて、「あれは悪い事」「コレはイケナイこと」といちいち反応してこの世を見ているのだ。それはコマーシャルや健康番組やニュースを基準にしてモノを考えさせられていたりしないだろうか。
それは自分にも向けられる。「わたしったら、こんなことして。。。」「ああ、いやだ、だらしない」「こんなはずではない。私の人生はこんなはずではなかったのだ!」などなど。

単に頭の中でかんがえているだけのことだ。とるにたらない独り言だ。勝手に言わせておけ。
しかしコレが人の人生に重要な意味を持つ。こういう言葉は常に頭の中で言い続けているものだ。
そのジャッジが他人に向けられる事が多い人。
「あいつめ、あんなこといいやがって」
「おれにその態度はねえだろ」
「いやあねえ、あのおばさんったら、みっともない」
「おうおう、だから政治家は汚いんだよ」

そのジャッジが自分に向けられる人。
「げげ〜、わたしってだらしね〜」
「イヤだ、シミが増えている!だめだめ、UVカットしかったからだわ!」
「鼻水が出る。。。ひょっとしてガンじゃないかしら!?」

そうやって四六時中あれやコレやと心が自分や他人の世話をやいている。その根本的なところにどっかりと存在しているのは恐怖だ。自分でなんとかしなきゃ、とんでもないことになったら。。。ダンナを監視していないと、とんでもない事仕出かすかもしれない。。。と。

恐怖は今そこにはない。ただ未来の事を心配して恐怖しているだけなのだ。今そこに恐怖するものはないのに、いちいちそれを思い出しては恐怖を再現する。心はいつもゆさゆさと恐怖と不安の中で揺れている。こんな状態がずっとつづいていて、人は健康でいられるだろうか。幸せでいられるだろうか。
その状態とは、あるがままの状態ではなく、あるべき姿を思い描いている状態なのだ。つまり今のこの状態をそのまま受け取る事が出来ないのだ。あああってほしい、こうあってほしいと願うばかり。だがその価値観はたいていどこからかもらって来たものだ。テレビもコマーシャルもそういう価値観をあおっている。恐怖しろ、不安になれと。
きれいな肌の女優さんを見せられて「こんなふうになりましょう」と畳み掛ける。しかしその化粧水を塗ったらそうなるなんて保証はどこにもない。きれいな髪の女優さんを見てこのシャンプーを使ったらこうなります、という。しかしシャンプーなくてもきれいでいられる。歯磨き粉使わない方が健康でいられる。

人々は恐れている。ニンゲンはもろいものだと信じている。菌はマスクでおおって遮断しなきゃいけないと思っている。しかしニンゲンってそんなにやわじゃない。現になにもしない方が健康でいられる。身体は大自然そのものなのだ。石けんなし生活でそれを直に肌で感じている私がいる。


しかしもっと大事な事がある。私たちは、本当に心の習慣がいかに人々を病気にし、不幸にさせているのか、気がつく必要があるように思えてならない。

作られた価値観が私をおびえさせる。ほんの些細な事でさえも自分自身をジャッジする。目に飛び込んでくるものに、無意識にいい悪いと判断を下し、あるがままでいられないのだ。今私がやっている事は、意識的にいちいちを判断しないようにしている。判断がはじまった瞬間にそれをやめる。いい事だとか、悪い事だとか、正しいとか、間違っているとか。だらしないとか、きたないとか。悪い事していると思うから、心が乱れるのだ。ただそのままの状況を見るだけ。
そのとき、何となく、心が静かな自分に気がつくのだ。


絵:メディアファクトリー新書:おもしろかったよ〜

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

最近、足も石鹸使わなくなってから、水虫
が小さくなった気がします。
どゆこと?不思議です。

つくし さんのコメント...

どれ、こんど私に見せてみなさい。

くるり さんのコメント...

こんにちわ。

先日久しぶりに地下鉄に乗ったら、車内の動画広告で『考えない練習』という本のCFが流れていました。

へー、と気になっていたのだけれど、今日つくしさんのブログを読んでいて思い出した。コレ↓です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4093881065

こんなものまで商売に!とか言い出すとキリがないですが(笑、今、こういうものを求めている人が少なからずいるんだろうな、と、。(ちなみに未読です、内容不明。)

つくし さんのコメント...

くるりさんこんにちは。

私もその坊主の人、気になっていました。読んではいませんが、「考えない」にも二通りあるんじゃないかな。

思考という正体がどういうものであるかを知って、考えない事と、単に考えないこと。考えない事を練習すれば、考えないように考えてしまうかも知れません(笑)。そのうち考える事が悪い事のように強迫観念してしまうかもしれません。むずかしいですねえ〜。

でもま、考える事が自分自身に害を及ぼしているかもしれない事を意識してもらえるきっかけになるかもしれないね。