2010年7月13日火曜日

ルールってなんだ?




『人類の隠された歴史』と言うユーチューブを見た。
エクアドルなどで発見されたスレートでつくられた笛や医療器具や何かのディスクなどが紹介されている。矢追純一の番組のような鳴り物入りの、いかにもあやしげな解説ではなく、学者が淡々とそのものについて説明する。あるいは目的がわからないという。現代の技術を持ってしても不可能なモノがそこにある。

そういうものを見ながら、私たちはいろんな事を知らされずにいるんだなあと言う事を実感する。それは、狭いかごの中だけがこの世界であり、その世界以外はなにもないのだから、よそを見てはいけないと言う暗黙のルールのような。それは明らかに意図的にそのように思わされている。


小学生のとき、あるテストがあった。
私はその白い紙の上に書かれたことが何の事か分らず、自分の名前だけを書いて先生に提出した。先生は「つくしちゃん、何んちゃあ書いちょらんが。ちゃんと書きなさい」といった。私はその紙に書いてある事が何の事か分らないので、先生の言う通り、空白の中をとりあえず知っている文字で埋めていった。そしてまた提出。すると先生は「またでたらめを書いて。ちゃんと読んで書きなさい!」といった。

考えてみたら、この世はテストばっかりしている。人が優れているとか、優れていないとかという「基準」を、一枚の紙で決めているのだ。それはあるルールにのっとった考え方をしていないものは、脱落者と決められる基準の紙だ。一番二番三番、最下位、などとレッテルをはられるのだ。
たかが人に教えられた通りに書かなければ、人間としてサイテーみたいにあつかわれるし、またその人自身も「自分って、サイテー」と思ってしまうのだ。

最近は何でもかんでもランク付け。ランク付けされて、喜んだり、悲しんだりしているのだ。誰かが考えついたレールの上を歩いているだけなのだ。人はひとりひとり違わないか?

基準ってなんだ?レールってなんだ?ルールってなんだ?絶対的なもの?
歴史だってどれが正しいのだ?
間違いを教えられて、それをその通りに書いたら100点もらえて、
「なんか違う気がする。。」
と思って、それを書くと0点をもらう。たかだが誰かが作ったテストなのに、そのテストがすべてになる。違っているかもしれないものを違った方向になぞるのが正しいのだ。そこから外れると「あんた、サイテー」といわれる。これはほとんど、世渡りジョースの人にしかデキナイ代物だ。だから私みたいにブキヨーなやつはセンセに怒られて自己嫌悪の固まりになってしまう。


冒頭のユーチューブは、そんな狭いかごに入って必死で考え込んでいる私たちを外から眺めている。
「そこで、なにやってんの?」と。



絵:カットイラスト/ヴァーベナ

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

まぁ、「□肉□食」の四角に漢字を入れよ。
という問題で、「焼肉定食」と書いた子供
に×をつける教育って、駄目だと思う。
色々な意味で・・・。

つくし さんのコメント...

○(まる)つけなきゃー、せんせー!

やっぱ弱肉強食より、焼肉定食な世界にしなきゃ。
あったかい社会になるよ。
ぱぱさん、いっしょにやっていこう。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

だって、間違えてないしなぁ・・。
だから、ちょびっと野菜の苗切っちゃっても許してね。

つくし さんのコメント...

よっしゃ、よっしゃ。
せんせーは懐が広いのだあー。
(せんせも時々切ってるけど)