2010年4月27日火曜日
自己嫌悪は自己逃避
自己嫌悪は自己逃避だ。
自己を嫌悪する事は、自分に落ち度があることに気づき、一見それを反省しているかのように見える。ということは、私は毎回反省をしている事になり、ますます性格が良くなるはずだ。なのに、あいかわらず同じ失敗を繰り返して、「ああ、アタシってダメな人間。。。よよよ。。。」となげく。
これはいったいなんなんだ?自己反省しているんだから、改善されてトーゼンではないか!
ある日、アリさんは花瓶を割ってしまった。アリさんは自分を
「アタシってばか。。。」となげく。またやってしまった。。。なんてバカなの。。。コレだからアタシの人生ってダメなのよ。。。と、つづく。で、それはじーっと自分の中に向かう。畑の真ん中でぽつねんと立ち尽くし、その思いはぐるぐると渦を巻いて自分と言う宇宙の中に沈み込んでいく。
上からみていたクモさんが言う。
「おーい、やったことはどこいっちゃったのだあ?」
花瓶を割った。という事実がある。その事実は単に事実なだけであるが、この世のジョーシキで測ると、「イケナイこと」となる。アリさんはそのジョーシキで自分を測る。「あたしって、イケナイ子。。。」そうすると、頭の中に過去に自分がやってしまった数々の失敗を押し入れの中から引っ張りだしてくる。あの時、あんな事もやったこの時こんな事もやった。。。ああ。。アタシってどんだけバカなのおおおおおっ!となる。
このとき、花瓶を割った行為はどっかにほっぽっとかれている。
今は、やってしまった自分の愚かさに夢中になっている。これは反省とは言わない。反省とは、やった事を真正面からみて、
「うん、確かに大事な花瓶を割ってしまった。それはわたしが慌てていたからにちがいない。ではこれから落ち着いて行動する事にしよう」というのが反省。
アリさんは、実は自分がやった行為を真正面からみていないのだ。それはその行為を見るのが怖いからだ。ほんとうは反省とみえて、自分の行為を責める事で、その現実を見る事から逃げているのだ。一見、落ち込んでいる姿は反省しているように見える。そして自分を責める事で本人も反省をしている気になっている。しかしそれはその現実を見ないためのすり替えなのだ。
なんてしたたかなのだ?うまい事すり替えて反省しているつもりで自分に安堵している。
もうひとついえば自己嫌悪はすなわち、自己憐憫でもあるのだ。
「アタシってばか。。。」といいつつ、なでなでと自分をかわいがっているのだ。
アタシってばか、アタシっておばかさん、アタシってかわいそうなおばかさん〜〜、きゃ〜、かわいいおばかさ〜ん、るんるる〜〜〜んっ!と、なってしまう。。。。(わたしだけか?)
そうして花瓶は割れたままそこに放置されるのだ。
だから改善されて性格が良くなるはずはない。反省してないんだもん、私。
いやはや自分の精神構造にあきれ果てた。うまいことやったもんだ。こうやってながーいこと自分をごまかしてきたのだ。事実を事実として受け入れる強さがなかったのだ。真正面から見る勇気がなかったのだ。
アリさんの足下に夕日が当たった。気がつけば長い事そこに立ち尽くしていたのだ。
「あ〜あ、こんなにおそくなっちゃった。さ、はやいとこ巣にもどりましょ。」
そういって、足下の花瓶の割れたかけらを拾い集め、ゴミ捨て場に捨て、巣に戻っていった。
絵:COOPけんぽ表紙
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2 件のコメント:
ああ。まさにそうですねぇ。
私もよくやる、思考停止・・・。
えいや。と振り切って猛進してみる
けれど、考察がないからいい結果が
ついてこない・・。
いやいや・・情けない・・。
むしろ、思考停止したほうがいいのよ。
思考はだいたいにおいてネガティブな事ばっかりいいはじめる。感情とともにはじまる思考は特にね。
いかに感情を伴わずに現実を見るかにかかっている気がするな。
考察は静かな心から生まれる。
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