2010年4月12日月曜日

大量虐殺〜!




畑の草を刈りまくった。大量虐殺だー!
賞味期限過ぎた(?)種を何種類も混ぜこぜにし、フェンス脇の畝のないエリアにばらばらとまきちらす。ほんでもって、その蒔いたところの草という草を刈りまくったのだった。刈っている間中、罪悪感が充満する。
「ごめんよ。ごめんよ、草ちゃん」

「草も虫も敵としない」というのが、自然農の合い言葉なのだが、敵とはしないが、刈りまくる。はっきりいって、フツーの草のない畑のほうが、ここまで残虐行為はしないだろう。ちょろっとでたら、引き抜く程度なのだから。しかし自然農は、ばっさばっさとそのイノチを絶やす。共存はさせつつ、しっかりその優先順位を作る。

これはどこかで、おごりたかぶる人間のサガを刺激する。
自然農は科学的な肥料や農薬を一切使わない。そしていわゆる有機肥料も使わない。それはすべてが自然に帰っていく、山も川もよごさない、いわゆる今ハヤリの(私の嫌いな言葉)「地球にやさしい」農法だ。その自然にやさしいはずの農法は自然をぶった切る。「コレは草だから刈って良し。コレは野菜だから刈らない」などと差別する。
私はそーゆー自分の行為をよく肝に銘じておくのがいいと思うのだ。


ところで動物愛護の人はビーフを食べないのか?
自然愛護の人は野菜を食べないのか?
ベジタリアンの人は、肉や魚は感情を持っていて殺すと痛がるから食べないと言うが、はたして野菜は痛がっていないと誰がわかる?悲鳴が聞こえないとか、いやがる動作をしていないからというのか?

それこそ人間のおごりではないか。人間の視点からでしかモノを見ていないではないか。山にオオカミが増えたと言っては「調節」し、その結果シカが増えたと言ってはまた「調節」する。だが大自然ははじめからもっと大きな何かを調節するためにオオカミを増やしたのかもしれないではないか。狭い範囲の中だけでモノを解釈していたら、必ず矛盾する事にぶちあたる。

「わたしは自然にやさしい」と思って自分のやさしさに乗っかってしまうことほど危険な事はないように思う。いい事をしている、という気分は自分にとっては気持ちいい。しかしその足下には何億何兆という生物がいて、その踏ん張った足の下で無数のイノチが、今そこであなたに殺されているのだ。

だれ一人自然にやさしくなんかない。いや、やさしくなんかできない。やさしくするってえのは、上から目線だ。人間は、ただ偉大な自然に、ちっこい存在として守られているだけだ。人間は井戸の中だけが世界だと思って右往左往するカエルだ。井戸の水は上から降って来て、下から溢れてくる。カエルはその意味が分からない。

そーゆーことを肝に銘じて行為する。
コレはいい事とか悪い事とか判断するのではなく、自分が今やってる行為に、つねに気がついていなくちゃいけない。判断や解釈は、単なる井戸の中だけの法律だ。
高尾のやまんばは、草を刈りながらおもうのであった。


絵:「モンスター列伝」坪内寿夫(うちのばあちゃんにそっくりだ)

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

ある、香港人によると、「ベジタリアンには3種類ある。宗教的な理由で食べない人。体質的に受け付けない人。そして、肉を買えない貧乏な人。」だそうです。
ということで、動物が可哀想だから食べない。というのは、宗教的なのに近いのかもしれない。というか、海外で「可哀想だから肉食べない人」っているんですかね。そんなナイーブな奴はいないような気がしますが・・・。

私の考えでは、正解はなくって、みんなが考えていることを、(お互いに迷惑のかからない範囲で)尊重しあいましょうよ。っていうのが私のスタンスです。よってもって、シーシェパードは論外。文句言ってる分にはOKとしています。

つくし さんのコメント...

香港人、アナタ正しい。ワタシ納得スルヨ。

アメリカ人にいたいた。かわいそうだからと食べない人。
いっしょにご飯は食べるとめんどくさい。色々制約があって。日本食のカツオだしでさえも拒絶する。ミソスープ飲めないしね。

ぱぱさんのいうように、みんな違うんだから違うなりに付き合う。シーシェパードの人とは一緒にご飯は食べられそうもないけど。