2009年11月22日日曜日

権兵衛オヤジ




むかーし、あるところに権兵衛というオヤジがおった。オヤジは朝起きた瞬間から、ため息をついた。
「あ~、きょうもつらいなあ」
窓から曇り空を見て、
「あ~、寒いだろうなあ。野良仕事はつらいなあ」とぼやく。
おっかあに握り飯を作ってもらって、リヤカーで仕事場に連れて行ってもらって、そこで一日働く。日当はわずかなもんだ。そこでぼやく。
「なんでオラはこんなに働いて、こんだけの駄賃しかもらえねえんだ?」
昼時に道ばたで握り飯を食いながら、お侍さんたちの姿を見る。でっかい刀を腰からぶら下げて堂々と歩いている。村の衆はみんなペコペコ頭を下げる。
「オラ、こんな仕事やるために生まれてきたんじゃねえだ。あんなふうに人様からうらやましがられる仕事をするために生まれてきただ。ああ、いつんなったら、こんな仕事から抜けられるんだ。こんなのオラの仕事じゃねえ!オラの人生はなんてつらいんだ!」
権兵衛の顔は苦悩で歪んだ。

権兵衛には特技があった。権兵衛にわらじを作らせたら、天下一品だった。そのわらじをぜひうちで商売にしたいというあきんどがいた。それで商売したらいい銭になる。なのに権兵衛は「あのあきんどのやり方が気に入らない」とか「おらの大事なわらじを置く棚が気に入らない」などといって、いちゃもんをつける。そして決まって「だからオラの人生はつらいんだ!」と叫ぶ。

ある日、権兵衛は、道ばたで牛車にはねられた。野次馬がやってきて、おおさわぎ。「大丈夫か。おい。」と口々に声をかけた。すると権兵衛オヤジはすっくと立ち上がって、「おら、なんてことねえだ」といった。
家に戻っておっかあに「オラ、今日牛車にはねられただ」というと、おっかあは、
「日頃、人といつもぶつかっているから、牛にぶつけられたのよ」といった。

ーーー


解説(長いのでよろぴく):

このオヤジにはある種の特徴がある。
彼はどうも「人生はつらい」という方程式をもっているようだ。日常的な些細なことから仕事からすべてを「人生はつらい」という方程式につぎつぎと当てはめては、納得をするというクセを持っている。多分人生の最初の頃に何かとてもつらいことがあり、そのときから「人生はつらいものだ」という結論に達したのだろう。その持論を証明するために(無意識に行われる)、起こるできごとをその方程式に当てはめては、「やっぱり人生はつらいものなのだ」と次々と立証していくのだ。
だが、その方程式の行き着く先は「人生はつらいのだ」という結論しか待っていない。その結論を死ぬまで持ち続けて生きるのはつらいだろう。

では、なぜそんな持論を持ち続けているのか。実はそう思うことによって「この世を生きている」という実感が持てるからなのではないだろうか。これが心の厄介な部分なのである。

じゃあ反対に「この世は幸せに満ちている」という方程式を持つことだってできるじゃないか。しかし人はたいてい幸せな気分に浸る時間よりも、不幸なこととを考えることに時間が費やされる。
じっさい体が元気なときは、人は体のことなんか忘れている。「ああ、私って健康!」と四六時中思う人はあまりいない。反対に体がきついときほど、じーっとその体のきつさに意識が集中しているものだ。

心はいつも何か考えることを探している。それが心というものだ。
そしてそれはたいていネガティブなことに費やされる。このオヤジの場合は、人生はつらいという方程式に当てはめた。それを立証するために物事は展開している。。。。のように見えるが、じつはそうではない。その視点に立てば、いつもそのように見える。しかし、別の視点に立てば、物事はがらりと変わる。
よく考えたら権兵衛オヤジはとてもラッキーなオヤジなのである。

ラッキーその1:オヤジには寒さをしのげる家がある。
ラッキーその2:オヤジには握り飯を作ってくれるおっかあがいる。
ラッキーその3:おっかあにリヤカーで仕事場まで運んでもらえる。
ラッキーその4:オヤジには働くところがある。
ラッキーその5:オヤジにはわらじ作らせたら天下一品という特技がある。
ラッキーその6:そのわらじを売りたいというあきんどがいる。
ラッキーその7:牛車にぶつけられてもへっちゃらだった。

不幸はその人のものの考え方が呼ぶ。はたから見たらとても幸せな状況に置かれているように見えるにもかかわらず、その人の考え方次第で心の中は嵐が吹きすさぶ。ということは、すべては心の向け方に関わってくるということだ。
「心」はいつも何か考えることを探しているとしたら、そしてそれはネガティブなことに心がいきやすいのだとしたら、人間というものはなんて不幸な存在なのだ。そしてその不幸は、思いが先行しているだけで、単純にそれがこの世の不幸を呼び込んでいるとしたら。。。?



権兵衛オヤジはそのことに気がついた。自分の心がいつも不平と不満でいっぱいだったことに気がついた。
「おっかあ、オラなんてとんちんかんだったんだろ」

それからというもの、権兵衛は自分の心のクセを日々見つめるようになった。気がつけば、息を吸うように常にその法則に向かおうとする心がいる。そのクセはそう簡単には外れなかった。しかしそれを意識した瞬間から何かが変わり始める。薄紙をはがすように少しずつ少しずつ権兵衛は変わっていった。
それは漆黒の闇から、ゆっくりと空が染まり始めるように。。。


おあとがよろしいようで。



絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より一部抜粋

6 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

ん?
どっかで聞いたような、聞かないようなお話でんなぁ。

つくし さんのコメント...

やっぱ、ばれた?

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

っというか、私も含めて、たくさんのひとが、同様の思いを抱いて悩んでます。
牛車にぶつかって助かる人は、非常に少ないでしょうし、その事で、”はた”と気づける人はもっと少ないでしょうけど・・・。
私は・・・牛車にぶつけられたら、助からねぇだろうなぁ・・。

つくし さんのコメント...

たくさんのひとを思い悩ませてすんません。
って、どの思い?
権兵衛の正体?
それとも権兵衛の思いグセ?

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

"彼はどうも「人生はつらい」という方程式をもっているようだ。日常的な些細なことから仕事からすべてを「人生はつらい」という方程式につぎつぎと当てはめては、納得をするというクセを持っている。"
ってあたりです。

つくし さんのコメント...

ぱぱさんにもそんなところに同調する部分があったんですねえ。いつもオヤジギャグ飛ばしているのに。
これからぱぱさんのことを、オヤジギャグ兵衛と呼ぼうかな?

人生つらいとおもう反応には、必ずその反応する原因があるわけです。何か基準となるものがあり、それと比較して「つらい」という反応が起こる。つまりニンゲンは、たえず何かと遭遇するたび、条件反射のように心を動かしているということです。まずそのことに気がつくことが大事なんだと思います。
じつはその原因となる何かは、母親や父親やとても身近にいる存在によってもらっているものがほとんどのようです。小さいときに真っ白なキャンバスに色をぬられるように、知らないうちに入り込んでくるものなんでしょうね。権兵衛オヤジは、どうも母親の愚痴をよく聞かされていたようで。それが無意識にこの世を見る時の基準としていたようです。

反応はだいたい感情をともなってやってくるんです。今度、感情がぴくんと動く度に、
「この感情は何に反応しているのか?」
と自分をジッと観察してみるといいかもしれません。