2009年10月23日金曜日

あ〜極楽極楽




お風呂につかると「あ〜いいきもち〜」と人は言う。
温泉につかると「あ〜極楽極楽〜」という。
この瞬間、人はと〜ってもリラックスする。
私は日本人がフロ好きなのは、何かそこにとてつもない重大な秘密があるように思えてきた。(またまた〜)

自慢じゃないが、私は風呂につかると、いいアイディアや、おもろいことや、真理をついたことなど、いろいろぽっと浮かんでしまうのである。かのアインシュタインもいっていたそうな。
「なんでいいアイディアが浮かぶのは、決ってシャワー中なんだ!」と。

私はここにニンゲンの思考に関する何かがひそんでいる気がする!(なんとな〜く、また長くなりそーやろ?ダイジョブ。短くするから)

つまりだ、そんとき私はな〜ンも考えてないのだ。このな〜んも考えてないところに、ほいっと上からの飲酒ピレーションが入ってくる。いや、ほんとは絶えず飲酒ピレーションは降りてきているのだが、ほら、絶えず頭ん中が「ああじゃない、こうじゃない」とめまぐるしく考えているやろ?つまり頭ん中がドンカンドンカン工事現場のまん中にいるようなもんなんだが、そこにいてもささやき声は聞こえない。あれといっしょ。飲酒ピレーションは(しつこい)、心が静かになった時にそよっと聞こえるものなのだ。

アメリカに住んでいて、そういった「あ〜極楽極楽」という気分になったことがない。風呂につかれないからだ。
ひょっとして日本人がこんなにモノ作りにたけていたり、世界に対してあまり攻撃的でない性質は、こんなふうに心が静かになれる時間を自然と持っているからなんではないんか?と、ふとお風呂の中で思ったのだ。
いや、ひょっとしたら、この時間が大事であることを深いところで知っていたからだ。その瞬間に「宇宙と一つにつながっている感」(なんじゃそりゃ)があるからなんじゃないのか?自分と他人はいっしょとか、この世は幻であるとか、なんだか目先の問題なんてどうでもよくなって、遠いところに視点が置かれるような、そんなかんじ。だから一日のおわりに、ゆったりと風呂につかるのだ。その日一日の身体の疲れ、そして心の疲れまでも落としてくれるひととき。

禅の修業でも「無心になれ」というではないか。シチめんどくさいことをやらせるもんだなあと思っちゃうが、じつはこの無心という状況がどれだけエネルギッシュで飲酒ピレーションを運んで来て、ちょーお得なことなのかを、ほんとはしってたんちゃうかー?

これからは、風呂につかって、
「あ〜極楽極楽」とつぶやくことが禅の修業になるのだ。

いやそれは、日常でも使える。仕事しながらでもフロに入った気分になることが無心になることなのだ。

絵:けんぽ表紙「温泉宿」

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

と、いうことは、私にひらめきが無いのは、半分シャワー、あと、風呂に入らないこともあるし(←汚っちゃ無い!!)。
それが原因なんでしょか?

飲酒ピレーション。今後使わせて頂きます。
代わりに、アル中ハイマー。使っていただいて結構です。m(__)m

つくし さんのコメント...

はっ。
ではそのように、アル中ハイマー、つかわせていただきま中。

花粉症仲間のパパさんは、石けんなどというものは使ってはいけませんが、風呂にはつかるべし。
と〜めどもな〜く飲酒ピレーションがわきま酒よ。