2009年10月17日土曜日
めんどくさいニンゲン
ニンゲンという生き物は厄介なものである。
最近になって判明したのだが、ウチの母は、いつも心の中で「早くしゃべらなきゃ、速く歩かなきゃ」と思いつづけているらしい。それは物心ついた時からずっと。なぜそうなったかと言うと、「遅いわねえ」と言われ続けてきたからだそうな。だからいつも心は「早くしなきゃ、早くしなきゃ」と言っているもよう。
先日、足腰が痛くて歩けないから、病院に行った。外科に行って、色々調べてもらったが、どこも悪くない。そんなはずはないと訴えるが、医者にしてみたら「あんた、そのしゃべり方がどうもとろいから、脳梗塞の疑いがある。内科に行きなさい」と回された。
内科にいくと血圧から何から調べたあとで、「はい、今日は何日〜?ここの病院はなんて名前〜?ハイあなたのお名前は〜?」と聞かれた。全部答えると「おかしいわねえ。どこも悪くないわよ。なんでここに連れてこられたの?」という。外科でそのしゃべり方がおかしいから脳梗塞の疑いがあるって....」というと、じゃあ頭調べてみましょ、と、調べられた。すると70歳代にしてはまったくどこにも萎縮がみられなくて、若い脳みそそのものだったそうな。
「まあ!驚いた!こんな脳の人70歳代でいないわよ」と先生からお墨付きをもらう。
「先生、お薬ください」
「どこも悪くないのにお薬出せるわけないじゃないの」
彼女は一日がかりで病院に行って、薬一つもらえず「健康」のハンコをもらって帰ってきた。
早い話が、運動不足なだけだ。それは前から知っている。そうやって具合が悪いと病院にいっては、何もない事を確認して帰ってくる。もらってくる言葉はいつも「歩きなさい」だ。
「あたしはねえ〜、毎日15分間歩くだけでいいんだって〜」と、嬉しそうに私に言う。もう聞き飽きた。そうやって何十回何百回も「あたしはねえ〜、歩くだけでいいんだって〜」といってきた。
で、歩いた試しがない。
彼女は歩きたくないのだ。ゴミ一つ出しに出るのさえいやなのだ。要するに表に出たくないのだ。なぜか。それは人と口をきかなくてはいけないからだ。そして歩かなければいけないからだ。ここで冒頭の彼女の思いとつながる。いつも早くしゃべらなきゃと思っているということは、早くしゃべられないと思っているからだ。お医者さんにも「とろい」と言われた。確かに普通の人から比べたらとろい。でもこれが彼女のパターンだとおもえば、なんてことはない。私は生まれた時からこのリズムを聴いているからか、それがとろいとも思わない。
電話しながら私は母に、
「おかあさん、じゃあ試しに早くしゃべってみて」というと、母はいつもと同じペースでしゃべる。
「じゃあ、今度はあなたのペースでしゃべってみて」
というと、これまたさっきとまったく同じじゃないか!
「.....あのねえ。さっきとまったく変わんないよ。それってがんばっても、がんばらなくてもいっしょってことじゃないの?」と私。
「.......」沈黙の母。
たぶんこの様子だと、
「早く歩いて」と言って歩かせても
「遅く歩いて」と歩かせても同じだと思う(笑)。
要するにだ。人は勝手にこうしなきゃ、ああしなきゃと思いこんであせっているだけで、外から見たらちっとも変わっていないということなのかもしれない。思いはちっとも報われていないのだ。なのに気持ちばっかりがあせる。それで思いが頭いっぱいになっちゃってパンパンになり、一歩も前に進めなくなっちゃうのだ。
現に母は、買い物に行くとき、歩くコースをシュミレーションするらしい。だいたい3パターン考えるのだそうな。
「ここのコースを行くと、横断歩道がここにあって、行き着くまでに信号が変わりそうだったら、まずここでいったん止まる。いや、もしここでつまずいたらいけないから、別のルートにするか。いや今は何時だから交通量が多い。いやいやこっちだと信号がないからよけい危ない....」そうやってあーだこーだとシュミレーションするうちに疲れ果てて「今日はやめるか」となる。
医者に「歩きなさい」といわれても歩かないワケがここにあった。なんだかんだといいわけをつけて動かないだけだ。
つまりはかっこしいなのだ。つまずいたらかっこ悪い、遅かったらかっこ悪い、そんな姿は見せたくない。だから外に出ない。「早くしなきゃ」というアイディアは、そうあれたらかっこいいと思い込んでいるからだけのことなのだ。でも早くしゃべろうとしても早く歩こうとしても同じ。だったら、その思いは必要ないんじゃないの?
これは私のちゃんとしなきゃ病とまったく同じ心の動きである。ちゃんと出来たら人に迷惑はかけない。でもこれだってかっこしいだ。人にこう見られたいという思いは同じ。ああ、蛙の子は蛙だ...。
ところがこの焦る気持ちがあろうとなかろうと、じつは外から見たら同じ動作をしているのかもしれないのだ。それは母の姿を見てドキッとした。そして最近私のブログにアップした「わしらの畑」の中で私の動く姿を外から見た。はじめてのことだ。恥ずかしさをこらえながらジッと自分の姿を観察する。とてもいつも動揺しまくってあせっているニンゲンには見えなかった。どこか淡々としてどこ吹く風〜ッてな感じの私が写っていた。
そうか。人の心はその思いとは裏腹に、その人自身の内面をそのまま表に現しているだけなのかもしれない。自分で思うほど、みっともない姿をさらしているわけじゃあないんだ。母の言動を見て自分を笑う。母は自分が思うほど、人に迷惑をかけてはいないのだ。ただ、自分がそうなんだと思い込んでいるだけなのだ。そして「早くしなきゃ、早くしなきゃ」と自分に言い続ける。その結果、何も出来ない自分に腹を立てる。そしてまた「早くしなきゃ、早くしなきゃ」と心であせる。早い話が、そうやって人は思いの癖の中で堂々巡りをしているだけなんじゃないのか?
私は自己嫌悪することによって「自己嫌悪している間は人間的にダイジョーブ」と思っているふしがある。ちゃんとしなきゃと思う心にじつは二つの意識がある。
1:自分を見はっていないと何しでかすかわからないから、ちゃんと管理をしている。
2:そう思っている間は、人間的に自分を戒めるえらい私なのだ。
そしてその結果、そうすると、ちゃんとしているように見えるから、人間社会で生きていけるんだ。(ようは、かっこしい)
はあ...長くなった。この続きはまた今度。
え?聞きたくない?まあ、そうだろうなあ...。
絵:coopけんぽ表紙「ハローウィン」
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8 件のコメント:
"めんどくさいニンゲン"
言い換えると、"ニンゲンはめんどくさい"・・・
ありのママ、なすがパパで生きれるならば、人間も動物なので、幸せに生きれるかもねぇ・・・。
アリのママ、ナスがパパは、ふか〜い意味がこもっとりますなあ。
マジで、これいいかもね。しあわせに生きられるよ。
学園祭、おつかれさまでした。
ナスがママ、キュウリがパパ
って言うのもありますが、どっちが良いですか??
私といたしましては、
「ナスがママで、きゅうりがパパ」なほうがおいしいかとおもっとります.....って、
仕事せんかい!
昼休みでんがな。
そいえば、以前大阪の人に「でんがな」
「だんがな」の違いをきいたら、その本人
は上手く説明できなかった。
関係ないけど・・・。
しょーもなー。
高知弁は
「変わったにかわらん」とか
「しょう、のうが悪い」とかいいます。
意味は?
(クイズだしてどーする!)
「変わったにかわらん」
「しょう、のうが悪い」
ぱっさり、見当つきません・・・。orz
答え:
「変わったにかわらん」は、
変わったのに、変わらないというわけの分からん意味ではなく、
「変わったに違いない」とか「変わったようだ」という意味。
「しょう、のうが悪い」は、脳が悪いんではなく、
「とても調子が悪い」という意味です。
(いや、高知県人は脳は悪いかも...)
しかし....最初の話からなんで言葉の話に変わるねん!
ぜんぜん「めんどくさいニンゲン」の話とちゃうやろ。
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