2017年8月31日木曜日

「過保護のカホコ」がおもしろい


「過保護のカホコ」がおもしろい。

物語の構成もおもしろいが、なによりカホコが自分の感情を率直に見ている所がおもしろい。
番組で必ず「こんなのはじめて。。。。」というセリフ。自分の中に起こって来る感じたことのない感情を素直に見、素直に受けとめている。それがいわゆる、いい感情であれ、悪い感情であれ。

こう言う習慣が私たちについたら、この世はもっと生きやすくなる。

感情を見るということを小さいときから教えられて来ていたら、教育の中に取り入れられて来たら、この世はもっと違っているだろう。
うん。ぜひとりいれてほしい!



今、人はあまり自分の感情を見ないし、気がつかない。むしろ気がつきたくないほうかもしれない。先日も母とはなしをしていて、彼女は怒っている自分に気がついていなかった。

私たちの中には、悪い感情はもってはいけないという固い観念がある。そう教育されて来たのだから、その観念の壁をこわして行くのはけっこうたいへん。カホコのように、自分の中に起こってくる感情をそのまんま見るようなことはまれなことだ。
だけどそれはできる。


感情が起こり、それがネガティブなものだと判断された瞬間、人々のあたまの中は言葉だらけになる。
いけないことなのだから、それを消そう消そうとするのだ。消すために、言い訳を考えたり、感情を引き起こした相手の悪口を言って、自分の感情の正当化をする。
これは、言葉によって、自分の感情をごまかしているのだ。

悪いとされる感情を見ないようにする理由は、それが暴力につながるからだと判断されている。だが実際は、何もこわさなくても怒りは消える。むしろ何かをこわしたりしたほうが、怒りは消えないし、そのあとの罪悪感などで、もっと感情を引き起こしてややこしくさせる。

わき上がった感情には、必ず理由がある。意味もなくただわき上がりはしない。その直前に何かを見たり、何かを思いだしたりしたものに関係している。

自分の感情に気がついたとき、それに抵抗している自分、言葉だらけになっている自分に気がつこう。

それに気がついたら、目の前でやっていることをひとまず置いておいて、何もせずゆったりと座る。

目を閉じて、
「今どう感じてる?」
と自分に問うてみる。

頭はあいつがああだこうだと言い出すだろう。だけど
「それはいいから。今どんな感じ?からだは?」
と、意識をからだにむける。

意識は頭にばかり行くので、胸のあたりを意識するといいかもしれない。
私たちは、意識の比重をほとんど頭に向けている。すべてのことは頭で解決できると思っている。しかしそれはどうもちがうようだ。頭はろくなことを思いつかない。
頭がぐるぐるすることをほっておこう。

ただからだに向ける。
ただ感じるままを感じる。
何も抵抗しない。
エネルギーが動いているその感じをとらえてみよう。
聞こえる音を聴いていよう。
からだに空気が出入りするその感覚をとらえてみよう。
ほほをなでるわずかな風を感じてみよう。

その頃、あなたの心はもう感情の中にいない。
頭は忙しくしていない。
言葉にならない、なにかをかんじている。



そして、ふとやってくる「言葉」。
それは今まで考えにも浮かばなかった言葉。
あ、、、これだったんだ。。。
という気づき。

それは起こるこるかも知れないし、起こらないかも知れない。
そんなことはどっちでもいい。

静かな時間をもつ。
それが大事。
頭では解決できない。
頭では感情を抑えることは出来ない。
ただ、今そこにあるあなたをかんじて。

「Don't think! Feeeeeeeeeeeeeel!!」


2017年8月30日水曜日

最近の畑

無肥料で育てているウチの畑二代目のナス。種取り用二つ。

畑の野菜たち。

ナスは基本的に「肥料食い」と言われている。
いっぱい肥料が必要。
やまんばも春頃、肥料で育てられたナスの苗を買って肥料なしで育てるも、やっぱりウチの畑でナスはほとんどできない。

一昨年、無肥料栽培で育てられた関野さんの種を細々と育て、やっと一個だけ育てて種取りをした。

今年の春、その種を無肥料で苗を育て畑に入れた。成長は遅かったが、今になってナスがけっこう育ちはじめた。畑二代目のナスは、この畑を知っている。

今、種取り用のナスを育てている。かなり大きい。うまく種とり出来て三代目になれば、もっとこの畑になじんでくれるだろう。



ウチで取った白菜の種の双葉。コオロギに食べられないようにネットをかけている。
購入した白菜の種は、この暑さでさっぱり芽が出ない。

それから白菜。
白菜も無肥料で結球させるのが難しい。だけど無肥料だと虫もつかず、結球するまでもって行きたいところだ。

春、他のアブラナ科の植物と交配しないように、ネットをかけた白菜の種を取った。
同じ日に、ウチの畑でとった白菜の種と、買った白菜の種を蒔く。
やはり買った白菜の種はこの暑さで芽がでない。しかし一度ここで花を咲かせた種は、何かを知っているらしい。しっかり芽が出た。




ダイコンも同じ。購入した種より、この畑でとれた種のほうが、発芽のいきおいが違う。
種は記憶するのだろうな。
「これこれ!知ってる!この土!」
って。
元気に育ってくれるかなあ〜。


数値は手ごわい


先日、タクさんにこのブログを紹介していただいたとたん、ページビューが970に跳ね上がり(ふだん5、60個)、はなぢがでた。

次の日340になり、次の次の日130になり、今は100前後に落ち着いた。
なのに970個と比べて、少ないやんけ!とゼータクをいう、
数字に弱いやまんばです。(タクさん風)

いやはや、人は数字に弱いもんです。数字。てごわいですなあ~。
売り上げしかり、血圧計しかり。てごわいですなあ~。
数値がすべて!数値が神さま!この数値さえ下げれば!この数値さえ上げれば!
と、世の中は数値信仰まっさかり。


きのうもダンナとそんな話しをした。
「お前のブログ、100だろ?おれは10だぞ!(ここで本人少し恥ずかしがる)おまえ、おれの10倍だぞ!そんだけ人が見てくれてんだぞ!」

やまんばは、この部屋に100人の人がいるのを想像した。
「ひえっ!100人ってスゴイ量じゃん!」
「だろ!?ゼータク言ってんじゃねえよ」

世の中には、4ケタだの5ケタだの6ケタだのとフォローされている人々がいるが、やまんばの100は、じっくり見て下さっている方々に支えられているんだなあ~としみじみした。


人数と言えば、2年前からやりはじめた教室。生徒さん二人。やりはじめたとき、「あ、先生むいてない」と感じた。しかしまじめに通ってくれている。やめるわけにはいかないかんじ。

人数じゃない、数値じゃない。
この忙しい時代に、教室に、このブログに、わざわざ来てくれて、一緒に私の世界感を味わってくれている人がいる。

そのありがたさを昔は味わえなかった。
「自分はそんなえらそうな人間じゃない、自分はそんな価値のある人間じゃない、、」と、受け入れてくれていることを、受け取れなかった。

今は心を見、感情を味わううちに、自分と言うものの味わいを知りはじめる。はずかしいけど、ありがたい。


忙しい世の中、数値さえあわせればいい的な考えで、もの凄いいきおいで消化していく情報社会。

この数値、意味ある?
意味ない?



2017年8月27日日曜日

真空


やまんばは、ときどき、予知めいたことが起こる。
予知といってもたいしたことはない。

あ、これ決まる。。。
あ、これゲットする。。。
あ、これ決まらない。。。
などなど、日常的なシーンで、先読みできる瞬間がある。

その時の状態は、一種独特のものがある。
真空。。。と言うか、ゼロポイントというか、ニュートラルというか、自分という存在が、固形化したいつもの状態じゃなくて、どこにもいないかのような、不思議な感覚の中にいる。
視点は、目の前にあるものにフォーカスされてなくて、360度見ているようなかんじ。
そんな真空のスポットにはまったとき、次に起こることが「見える」。

このある種便利な状態は、ふいに起こるので、前もって準備できないのが残念。
でもできない理由なら分る。それは欲があるときだ。

これをゲットしたい、という自我が動くと、もうその欲にフォーカスされちゃって、予知もしっちゃかめっちゃかになる(笑)。
でもその状態が普段の私たちなんじゃないだろうか。
いつも意識は、目の前の何かにフォーカスされていて、それをゲットするぞ。それをやるぞ。と、ふんばっている私たち。

真空の状態にある時には、何かをゲットするぞなんてかんがえてもいない。どっちでもいい。どうなろうといい。というか、どうもこうもない。。ってかんじ。

老子のいう無為自然とは、そんなことなのかなあ。。。


2017年8月26日土曜日

行こうか、行くまいか。


迷うことがあると、あっちかな?こっちかな?え~~、どっちい~~~?
なーんて、おろおろうろうろする。

そんなとき、スピリチュアリストの雲黒斉さんが「雲さん」に聞いたときの言葉をおもいだす。
「どっちも一緒」

そんなとき、自然農の川口さんの言葉を思いだす。
「迷ったときは、そのままにしておけ」

どっちの言葉もなんだかほっとさせてくれる。

迷ってるときは、「正解」を出そうとあせる。これまでの人生、あせって決めるとろくなことがなかった。

だから、迷ったり、焦ったりしたときは、意図的にその場に佇むようになった。
じっとして動かない。動こうという衝動を、ただ見る。
マインドが「今ここにぼーっとしてたら、ろくなことがないぞ!動け!早くなんとかするのだ!」
と、脅してくるのをただ聞いている。

二つに分かれた道を、どっちを選ぼうと、行くところに行く。
二つしかないと思っているのは、マインドのしわざ。
二つ以外に、可能性はいくらでもある。
どっちも選ばず、ほったらかしにしておくと、勝手に事は進む。

そんなことを、日々の生活や、畑で学んでる。

さて。今日は雨が降る予定。西から雲が迫ってる。洗濯物は干してある。

畑に行こうか行くまいか。


究極の選択(笑)。


2017年8月24日木曜日

スピと非二元のちがい




スピリチュアルと、非二元がごっちゃになってる感がある。
じつはこの二つは一緒じゃないとおもうんだな。

起こる出来事を、「これはいいこと。それは悪いこと」という風に、二つに分けて、そのうちの悪いことをできるだけ避けようと、あの手この手を使って対処するのが、スピリチュアル。

起こる出来事は、勝手に起こるもんだから、避けるも何もない。いい、悪いという解釈がない。起こるに任せる、消えるに任せる。以上!ってのが、非二元、なんじゃないだろうかと、やまんばはおもう。



起こってくる出来事に、いいことと、悪いこと、という解釈をくわえる事によって、それがドラマ/物語を生み出す。


雨が降る。
これは現象として雨が降っているだけなんだが、そこに状況によっての判断があると、ことは変わってくる。
カラカラ天気のあとの雨はよろこばれるが、盆踊りで雨が降るといやがられる。
しかしこれも人それぞれの状況によって、判断が違う。

畑をやる人にとっては実りの雨。
盆踊りをする人にとってはやっかいな雨。

どっちもやってるやまんばは、どう解釈すればいーのだ???(笑)

畑をやる人は、雨乞いの祈りをし、盆おどりの人は、雨が上がる祈りをする。

これはスピリチュアルも同じ。来てほしくないことは、暦を読んだり、パワーストーンを持ったり、それを避ける言葉を唱えたり、浄化して避けようとする。
うまくいけばよろこび、思ったようにいかないと、苦しむ。
そういうドラマが繰り広げられる。


もしこれに、何の解釈も入れなかったらどーなる?
雨が降る。
「。。。。。」
以上!

ここには何のドラマもない。
雨が降ることに葛藤がないので、ドラマが始まらない(笑)。


非二元は、この葛藤が人々を苦しませていること、その葛藤にはきりがないこと、いくら満足を得ようと頑張っても、それは永遠には得られないということを教えてくれている。




ここへ視点を移動させていくことは、けっこうむずかしいかもしれない。
だって今まで「問題」を見つけ、「熟考」し、「解決」を見出してくることを教わり続け、それと奮闘することで、ドラマをつくり出し、そのドラマの中でこそ、自分が生きている!という実感を得て来たのだもの。


だがじっくりその現象に取り組んでいると、どこかにほころびをみつけはじめる。

スピリチュアルは、ドラマを続行させてくれる。
非二元は、ドラマの外に出る。

どっちをえらぶかは、あなたしだい。



「東京消える生き物増える生き物」/MF新書表紙イラスト
タカは新宿の高層ビル群を森として生きる。

2017年8月23日水曜日

今が気に入らない


「わたしは、今が気に入らないんだ。。」

今じゃなく、今ここにいるところじゃなく、今ある心持ちじゃなく、どこかに、次に次に行こうとする自分の衝動に気づいてはっとした。

コーヒーを飲んで「あ~、美味しい。。」という解放感は、そうは長く続かない。心は自動的に次に向かっている。
「えーと、これのあとはあれやって、それやって、と。。ああ。こうやってのんびりしている暇はないぞ。さっさと飲み終えて、やることやらなきゃ。。。!」と。
こうして解放感は一瞬で終る。

畑で草刈りをしていてもそうだ。なぜかあせっている。早く早く早く草刈りを終えなきゃ!と。
ちゃりんここいで家に帰るときもそうだ。早く家に着かなきゃ!と。必死こいて家にたどり着いたら、今度は早くシャワーを浴びなきゃ!になり、早く乾かさなきゃ!になり、心は次の行動に向かっている。

とにかくじっとしていられない。いったいどこに向かっているのだ?

どこかで安堵したがっているのは分る。安住の地、安住の場所、安住の心持ち。。。
しかしやってもやってもその次を求めているこの心は何だ!?
と、思った時、
あ。。。あたし、今が気に入らないんだ。。。と、気がついた。

自我は、今を受け入れることができない。今にいられない。
サルのようにあっちの木、こっちの木に飛び移って、まったく落ち着くことがない。

きのうも畑で草を刈りながら、どこかで焦っている自分を発見する。
焦った所で、どうなるというのだ?少し早く草を刈った所で、なにがある?
そう自分に言い聞かせてみても、自我は納得はしないだろう。
だが、焦ることで手を切るかも知れない。



ゆっくり、ゆっくりと意図的に草を刈っていく。
先走ろうとする心を、ただながめる。