2014年11月16日日曜日

展覧会を無事終えて



大阪での展覧会も無事終わりました。
たくさんの方々が、絵を見に来てくださいました。

日頃山の中でサルさんとイノシシさんぐらいにしか出会わないやまんばは、大阪の大都会で素敵な人々にお会いできました。

みなさま、お忙しい中おこしくださいまして、ほんとうにありがとうございました。


それにしても西の人たちはあったかいです。気持ちをストレートに表現してくださいます。
「あんら~、これセクシーねえ~。ええわあ~、すてきやわ~、すっきゃわ~。」
入り口から一点の絵をずっとゆびさしながら入ってきます。


と、隣の絵も見つけて、
「あんた、ほらみてみて!これもすごいわ。こりゃもっとエッチやわ。これこれ、すっきゃわ~!」
60代のおばちゃん団体がどどどっとはいってきて、おおさわぎ。

思わずニューヨーク時代を思い出しました。
私の絵を見て、「ひっ!」と、息を飲んで口を手でふさぐアートディレクター。
そして「つくし!君は天才だ!」と、さけぶ。
これは作家のモチベーションをあげてくれます。みなほめられると嬉しいもんです。絵をかいて生きてきてヨカッタ!と思える瞬間です。


今回の展覧会は少し今までとちがう感覚で過ごしました。

すばらしい時間と場所をご提供くださったギャラリーCENTENINIALさんに感謝いたします。



2014年11月8日土曜日

うん!ぼくもかっこいいよ!



近所によくおしゃべりする4歳の男の子がいる。やまんばのことを「くつしちゃん」とよぶ。なんやら、くつ下みたいではないか。「つくし」とうまく発音できないらしい。

きのうも向こうの方から
「くつしちゃ~ん、&%’”#’*+`?&%#$。。。。」
と、何かしゃべっているが、遠過ぎて聞こえない。

近くに来てやっとわかった。ステキな石を見つけたのだ。
「うわ、いいねえ~」
「うん。いいでしょ。これねえ、ひろったの」
よく見ると原始人がナイフに使っていたようなカタチをしている。
「ひょっとしたら、大昔の人がこれで料理作ったりしたのかもしれないよ」
「うふふ~」
とってもうれしそうだ。
ウチに持って帰って使い終わった歯ブラシで磨くそうだ。

先日も道で話をした。
「あのねえ、○○くんってかっこいいんだよ」
「へえ、○○くんってかっこいいんだ。君もかっこいいんだよ。知ってる?」
「うん!ぼくもかっこいいよ!」
そのとき、やまんばはドキッとした。

そうなのだ。
あの頃の子どもたちは、自分が大好きなのだ。自分のすることなすこと愛している。
だけどだんだんきらいになっていく。
それは神と同じくらい尊敬する身近な存在に、いけない、まちがっている、劣っている、失敗している、と畳み掛けるよーに言われつづけるからだ。

親は人様に迷惑かけないように、後ろ指さされないように、そして立派な人物になっておくれという熱いおもいで教育を施す。この世でみんなと生きていくための必須科目。
でもたいてい、もう一方のフォローがない。
するとだんだん自分ってダメだとしか思えなくなるのだ。

思春期になってそれは頂点に達する。おれってイケテナイ!!!
そのインプットはただインプットされただけだと気づかない限り、おそらく死ぬまでもっていく。
おばさまやおじさまが人様の目を気にしてビクビクしながら生きてるのを見るのは、未来の自分の姿を見るようだ。

しかし自分がダメだっておもってきたのは、外の基準にもとづいたものだったからだ。外の価値観と比較して自分を見ていただけだ。
その外の基準は、人に迷惑にならない程度に使えばいい。

もう1つ別の基準をもつのだ。自分だけのオリジナルの基準をひそかに作る。いや、思い出すといってもいいかもしれない。すると「自分かっこいい」って思えるんだ。「うん、いいぞ、あたし」ってね。

そのオリジナルの基準が作動しはじめると、やまんばも彼のように戻れるかな。
自分が大好きだったあの頃のあたしに。

2014年11月6日木曜日

比較ケントーするわしら



ひとってさあ、比較検討ばっかしてんだよね。
とくに近くにいる人間には、はげしく比較検討する。

あんたのほーが悪い。
あたしのほーが稼いでいる。
ウチの畑の野菜のほーがでかい。
ウチの畑の野菜にゃ、ムシがいない。
あたしのほーが病気が重い。
あたしのほーが不幸だ。
あたしのほーがびんぼーだ。
あんたが、あたしが、きんじょが、、、、

比較検討しなけりゃ、争いごともおこらないだろーに、わざわざ比較ケントーしては怒る。比較すりゃするほど、相手がうとましくなり、身近にいりゃいるほど、激しく気になるもんだ。

しかし現実は、他人の指一本動かせないのに、相手の悪いところあげつらったところで、「フン!」と言われて無視されるか、「倍返しだ!」っておもいっきり反撃食らうのがオチである。すると力で勝負する次元に入るから、口で言い負かされる方が泣き寝入りをすることになる。へたに力づくで真っ向勝負かけたら訴えられるし。。。
そのイライラは、より遠くて大きな存在に向かう。
セーフが、国が、地球が、、、、

ムリもない。ずっとちっちゃいときから
「比較ケントーして、がんばりましょう」
と、おしえられるんだもの。

そりゃ、成績が上がったり、かけっこで一等賞になるのは、達成感があって「生きてるぜ!」と実感が持てる。
しかしこの世は1つ価値観が作られると、相反するものも同時に生んでくる。たとえばこれが正しいとされると、そうではないものはまちがっているという価値観を生むので、一位にならなかった時や、成績が下がったときの屈辱感も生むのだ。

じゃあ、比較ケントーしてはいけないのかって話になるんだけど、そこじゃない。
していーの。そうではなくて、そのしくみを知る。
比較ケントーすると必ず勝った負けたを生む。
その結果に一喜一憂する自分に「気がついている」ことなのだ。

わしらは方法論をどこかからもらってくると、その方法論をやろうとする。成功法もダイエット法もなんでも。納豆がやせると聞けば、スーパーから納豆が消えるように。あれさえすればこれが解決すると信じている。
しかしそんな方法論は使えないのだとおもう。

方法論をくっつけるんじゃなくて、気がつくことなの。
ああ、そっか。比べるってそーゆーことなのか。。。と。
そこからがんがんに固く結ばれている心が、ゆっくりとほどけはじめる。

すると自分が何にこだわっているのか、
そしてどうしてそれにこだわっているのか、
そしてなにを怖がっているのかが見えてくる。



比較ケントーするのは、自分がここにいていいというお墨付きをもらおうとしている。でもここにいていいというお墨付きは、もうすでにもらっている。
なぜなら、そこにいるってことがそうだからだ。


絵:ハードカバー表紙イラスト/Penguin Books Elaine Viets
彼女の小説のシリーズはずっと手がけてます。



2014年11月5日水曜日

どっち選択したって、行き着くところはいっしょ





素敵な選タクシーとかいうドラマが深いのだ。

人生には分岐点が色々あって、そのつど選択をする。竹野内豊が演じるタクシードライバーのタクシーは、時間を戻ることができて、その「間違えた」選択を別の選択に切り替えられるというのだ。

ところがいざその選択肢を別の選択にしても思うよーに進まず。ハチャメチャな展開になっていく。七転八倒したあげく、主人公はおもいもよらぬ結果に導かれる。

これはねえ、すっごい深いねえ。
まず何度も過去に戻ってトライできるあたりが、この世は並行宇宙でありとあらゆる可能性があることを教えている。
時間なんて存在してないとなにげにいってる。

んで、主人公が思うようにいかないのも、結局その経験を通して、あなたは何を学ばされているのかってことを教えてくれているのだ。

1億円ゲットするとか、不倫相手と結婚するとかに、主人公の意識は何かをゲットすること向かっている。が、宇宙はそこに注目はしていない。
宇宙は、あなたは何を怖れているのか、そしてそれに真正面から向かえってことをいってる。

うまいこといえないけど、けっきょくさあ、どっち選択したって、あなたが個人的に抱えている問題にむかわされるわけだ。

それをこのドラマは笑いながら教えてくれている。


2014年11月2日日曜日

マジでこの世は自分の心でできてるうううう〜




11月4日(火)〜11月12日(水)




「あんたさあ、ホントに思ってること言わないよねえ」
と、やまんばはダンナをするどくつっこむ。
「しょーじきに言えば?」

「え?おれ、いつも正直に言ってるよ」
「うそうそー。一見好き勝手にしゃべっているよーに見えるけど、ホントのところは言わないじゃん」
「。。。それ、君のことじゃないの?」
「。。。。 ん? えっ、、、えええええ~~~~っ!」

するどくつっこみをいれたつもりが、墓穴ほっちゃった。

そーなのだ、そーなのだ。
およそ人の気に入らないとこ見つけてぶーぶー言ってるものは、じつは自分のことなのだ。マジで。ホントに。おもいっきり。

誰かのことを「あいつは頭が固い」と思っているのは、おれは頭が固いと思っているのだ。
「あいつ」は「おれ」に主語を置き換えられる。


ためしにやってみそ。
だれかさんの気に入らないところをあげつらってみよう。そのだれかさんの、だれかのところを自分に置き換えてみよう。マジで自分にショージキに自分を振り返ると、自分で自分のことをそう思っていることに気がつく。

実際どうであるかは関係ないのだ。
かんじんなのは、自分でそう思い込んでいる、信じているってことだ。

やまんばは、一見好き勝手にしゃべっているよーに見えるけど、うまくごまかしている。その場をテキトーにとりつくろっている。
それは他人が怖いからだ。だから本当に思っていることが言えない。

んで、それを他人に見るわけだ。
「あ、あいつ、自分のこと隠している」って。
犯人は君だよ、ワトソン君。

やまんばはほんとに思っていることは言えないものだと信じているのだ。
ほんとは言えるかもしれないのに。

ダンナに向かって、「ホントのこと言っちゃえ」っていってるのは、自分に向かっていってるのだ。

おそろしーぐらいこの世は自分の心の写し鏡だ。。。


2014年11月1日土曜日

人にOKをもらうために生きる人生



やまんばは人の目を気にする。
人がどー見ているか、人がどー私を裁くか、人にどー好かれるか、人がどー私の仕事っぷりを判断するか、人に何か迷惑かけていないか、気にしている。

およそやまんばがおこす行動のモチベーションは、人の目が基準だ。
家の中にひとりでいて、他人がいなくても気にしている。
今、この部屋に誰かが入ってきてこの部屋を見たら、どう思うか。汚い。やばい。そうじしなきゃ、と。
ほらね、人の目だ。
今この件で聞きたいことがある。けど電話したら迷惑だろうか。今仕事で忙しいかもしれない。できない。でもあとから迷惑かける。ううう、どっどーしよー。
ほら、人の目。

びっくらこいた。
自己嫌悪したり罪悪感もったりしている自分は知ってたよ。だけど、そこまで人の目を気にしていたなんて、チーットも気がつかなかったんだよ。
それがさあ、おそろしーことに、その自己嫌悪も罪悪感も「人の目」が前提だったんだ。

よーかんがえたら、あたり前田のクラッカー。
もし無人島に、いや、この世にやまんば以外の他人が存在してなかったら、やまんばは自己嫌悪するかね?罪悪感もつかね?

しないね。じぇったいしないね。
パッパラパーになって、好きなこーとして遊ぶもんね。「あたしはどーみられてるんだろーか」なんてびくびくしない。
だいたい、誰に「見られる」んだ?



人は人の評価を気にしている。ほめられるとうれしいものだ。君、才能あるねえと言われると天にも昇りそーになるものだ。それは他人に「あなたはここにいていいよ」と、お墨付きをもらっているかんじがする。だから人は人にいいことをしようとする。

だが同時に、ほめられなかったらどうしよう、きらわれたらどうしようと言う相反するものの恐怖も生む。
だから人は他人の目をつねに気にする。それはいつでもどこでも他人にここにいていいという許可をもらいたがっているのだ。

そーすると、ひたすら許可をもらうために人の目を気にしつづけることになる。オッケーをもらって認めてもらった瞬間は「よしっ!」ってうれしい。しかし次の瞬間から、また認めてもらうために行動を起こすのだ。

これ、きりがないのだ。
オッケーをもらうために次々に行動を起こしていくだけの人生。。。。
やまんばはひたすらそれにエネルギーを注ぎ続けているのであった。
すごいエネルギーの消費。ほとんど無意識のうちに息するようにやっている。

それははたしてほんとうの私の人生を生きているんだろうか。


ソフトバンクホークスが日本一になった。ものすごくうれしがる。
「やりました!努力の結果が認められた!万歳日本一!そしてまた明日っから新たな一歩が始まるのです!」
とアナウンサーは言った。
おいおい。
努力して勝って、やった!ってよろこんで、んでまた次の勝利に向かうのかい?

勝ちました。
よろこんでもらえましたでしょうか。
ありがとう。
ではまた次の勝ち負けに向かって生き続けます。

個人も団体も、みんな同じパターンで生きているんだね。


2014年10月28日火曜日

自慢する土俵がちがうとちぐはぐな会話になる




11月4日〜11月12日 in 大阪

「見てみろよ~。ムシに食われて散々だぜ」
近所の畑のオヤジさんはグチる。育てている白菜の中にムシがわんさかいて、それをとるのに忙しいようだ。

やまんばの白菜は、ムシに食われなくなった。いつもは苗の時によくコオロギに食われたが、今年はまったく食われない。イモムシ系はもともとほとんどいない。いつもバカにされるので、ここぞとばかり自慢した。

「うちはねえ~、ムシいないよ~」
と、やまんばは胸をはる。
「へえ~、いねえんか」
すごいなあ~と、感心されると思った。
しかしオヤジはにやっと笑って、
「おめえ、ムシが食わねえ野菜なんか、、、、ってことだぜ」
と言った。

げげげー、自慢したつもりが、ムシが食わねえ野菜なんか、食えたもんじゃねえぜと言っているのだ!

オヤジさんは、「ムシに食われて散々だぜえ~」と言ったのは、なにげに自慢していたのだ。
「おれの白菜はムシが食うほどうまい」と。

やまんばはムシがいなくなるということは、それだけ土に肥料がなくなって、野菜が自分のちからで育ちはじめ、ムシを寄せつけないほどに強くなったという意味だった。

これはねえ。ふたりの自慢する土俵が同じ土俵でないとゆーことだ。

1:オヤジさんはムシが来ることが自慢。
2:やまんばはムシが来ないことが自慢。

自慢とは、共通の価値観があってこそ成り立つものなのであーる。んで共通の価値観がない場合は、なんともちぐはぐな会話になって、空気をかき回しているよーな心もとないもんになるのである。

んで、やまんばは、このブログでエアー演説をぶっこく。

「おめえ、ムシも食わねえ野菜って、スンゲー甘くって、濃厚な味なんだぜ!」


展覧会のインフォです。
つくしは、10、11、12日と在廊しています。