みんな安らぎを求めている。
それは何かを得ることによって得られるものだと信じている。
お金があれば安らぎが得られる、
毎月決まった収入があれば安らぎが得られる、
あの人が変わってくれれば安らぎが得られる、
もっといい仕事があれば安らぎが得られる、
この痛みさえなくなってくれれば安らぎが得られる、
今アイスクリームが食べられれば安らぎが得られる(それは今の私)、、、
なくすことでも、手に入れることでも、消えてくれることでも、
なんでもいい。
今のこの状況が、何かしらの形で変われば、私は安らぎを得られる。
私もアメリカからの送金がずっと滞っていて、
あのお金さえ入れば私は安らぎを得られると思った。
半年間の格闘の後、確かに送金されたが、安らぎはほんの一瞬だけだった。
でも心のどこかでは知っていた。
入っても一瞬ホッとするだけだよな。
案の定、一瞬ホッとしただけだった(笑)。
そしてまた次のお金にフォーカスする。
私たちは形を求めてさまよう。
あの形、この形、もっといい形。
それは「この世界には私が安らぎを得られるものがある」と信じているからだ。
だがそれは一瞬の安堵で終わっていく。
そしてその求める心は止むことがない。
駄菓子店を別のところに向けると、、、
もとい。
だが、視点を別のところに向けると、
今この瞬間に安らぎがある。
今という瞬間に目を向けると、何の恐れもなく、ただそこに今がある。
と、次の瞬間、声が聞こえる。
「ぼーっとしてる場合か!」
「今この瞬間に動かないでどうする!
今やらないで、いつやるんだ?
お前の未来は今何をやるかで決まってくるんだ!
ぼーっとするな!」
いつやるの?
今でしょ!
その今やることとは、
今この時を味わうことだ。
あしたのジョーの言葉
「明日のためにその1」
ではなく、「今」のために今がある。
自我の声は大きい。
大声で怒鳴ってくる。
何をしてるんだ!動け!何かをやれ!
その声は私の味方。ずっとそうだった。
その声のおかげでここまでこれたから、あなたは私の味方。。。。
じゃねえし!
キリのないラットレースをやらされているだけだった。
あれやれ、これやれ、そうじゃないだろう!ダメじゃないか!
その大声を聞いている、あなたは誰なのだろう。
私がそのことに気がついたのは、もう十数年も前のこと。
私を罵倒する、徹底的に否定するその声、
よく聞くと矛盾だらけのその説教に気がついてからも
その声が正しいと信じて生きてきた。
奇跡のコースを知り、その声の意味を知り始めたが、それでもまだ信じてきた。
今でも本気で全面的に「それは間違っている」とは思えない私がいる。
気がつけばその声に巻き込まれてオロオロしている。
でもこの世界に安らぎを求めることは不可能だとも気づき始めている。
頭に聞こえる、自分を全否定してくる声を聞くと、
世界は私を罪人だと証明してくれる世界だ。
自分が肉体という檻に閉じ込められた罪人で、
時間と空間という監獄の中で、
自分に鞭打って犠牲を払って生きていかねばならないという刑に処している。
そして最後は死という安楽をもらう世界。
それを聞いているのは誰か。
それを見ているのは誰か。
その聞いている存在、
見ている側、
そのものこそが本来の私。
形のあるものにだけフォーカスされていた心を、
形のないものに移行する。
森に入った時、森いっぱいに広がる私の心は何か。
広がるものはなんだろう。
頭に聞こえる大声は「恐れ」を呼び起こす。
森いっぱいに広がる心は「愛」を呼び起こす。
心はどっちに向いている?
どっちにも向くことができる。
向くことができる「私」を知る。