2019年3月19日火曜日

私が見ている世界



たとえばこんなイメージ。
今見ている目の前に展開する世界。

目ん玉動かさずに見ると、左右180度の広がり(もうちょっと狭いか)。上下これまた180度の広がり(もっと狭いかw)。その広がりの中に展開する世界。
これが「私」の世界。その見え方は家の中では壁に阻まれ、その壁の向こうは見えない。外にいたとしても、山や建物に隔てられて、その向こうは見えない。
じつはこれが今私が「見ている世界」のすべてだ。

顔を右に見回すと、別の世界が展開する。左に回しても、後ろを振り返っても、その見えている世界の続きが展開する。
だから私たちは、そこに空間が広がっていて、その中に個別の私がぽつんといると思っている。



しかしじつはそうではない。
あるのはその今見ている映像だけなのだ。(おっと。おかしなことを言いはじめたぞ)

顔を動かしたとき見える世界、椅子から立ち上がってドアを開けてトイレを見る世界、電車に乗って展開する世界。ぜーんぶ、そのとき作られている。瞬時にぱたぱたと出来上がっていく。

じゃあ、その世界の外は?いま私の背後の風景は?
ない。なーんにも。
私たちはただ自分が見ている世界だけで生きている。
生きている気になっている。でもこれがバーチャルだった。



そんなバナナ!
だって、あるもん!
家の外にはおとなりさんがあるもん!
八王子の向こうには立川があるもん!
高尾のお山の向こうには、藤野があるもん!

そうそう。ありますあります。走っていって確かめてごらんなさい。確かにドアを開けるとおとなりさんがあります。
そりゃ、そーです。その瞬間に作られてるんですから。

どーんなに高速でスパっ!って後ろを振り返っても、ものすごいいきおいでドアを開いても、ちゃんとそこには世界があります。
この世を見くびってはいけません。そんじょそこらの知恵で、手品のトリックを見破ろうったって、見破れやしません。なんせそれで何億年も(?)だまし続けているんですから。



この世界は自我が作った世界。自分/自我が信じてきたことが展開されている世界。
神さまなんかが作っちゃいない。神さまがこんなへんてこな世界を作るわけがない。
矛盾だらけ。悲劇だらけ。恐怖だらけ。絶望だらけ。
神さまだって、まちがえる?
そりゃ、自我が言う神さまのイメージ。
そんなへなちょこ神さまやったら、わし、いらんわ。


自我の罪悪感で作り上げられてきたこの世界。だんだん薄めていこうじゃないの。

自我の考えのパターンに寄り添っているかぎり、この世界は悲劇へとむかうで。
自分の中の自分へや他人への否定的な考え、いつもの不安な気持ち、言葉にならない焦燥感、未来への怖れ。
これが自我のエサ。



SNSにはそのエサが散りばめられている。
単なる薄っぺらい箱の中に人々は釘付けになる。その中に全世界が入っているように見える。だがそこにはただ映像が、文字が、いや黒いシミが並んでいるだけなのに、人々はそれを見て、怖れおののいたり、他人や社会をとがめて過ごす。
左右180度上下180度の世界よりももっと狭い世界の中に入って、心を脅かされ続けている。
自我が与えるその世界、そのエサを食べて、人はこの世界をもっとリアルに恐怖にしていく。

自我が与えてくる恐怖に気がつこう。
人をとがめる、社会をとがめることの「快感」に気づこう。


それは自我が仕掛けた矮小な世界。
そこに真実はない。
そこは私たちの本当の世界じゃない。
そこから出て行こう。



絵:芽吹き/coopけんぽ表紙最終号




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