2019年3月16日土曜日

仕事が出来る人が基準な世の中




世の中は、仕事ができる人が基準になって動いてるんだなあ~っておもう。

自慢じゃないが、私ほど仕事の出来ないヤツはいない(笑)。
母への仕送りのためにバイトをはじめたが、時間内に仕事が終らせられないこと山のごとし!
3年もたつのにいまだにノルマがこなせない。我ながらかんどーする。どんだけトロイんじゃ、このぼけ~~!
出来ない自分への心の罵倒が続く。しかし罵倒されて、あせればあせるほどからだがこわばり、ますます遅くなる。ノルマの重圧と自分自身からの罵倒の二重苦に喘ぎながらひたすら作業する日々が続いた。


しかしこの苦悩が、仕事が出来ない人の気持ちになれるという、思わぬ贈り物を受け取ることになる。

職場でみんなから嫌われている仕事の出来ない従業員さんと、マイペースで同じく仕事が出来ない新人さん。このふたりを温かい目で見られるのだ。


仕事ができる人は「出来ること」を基準にしてその目線で彼らを見るから、仕事をこなせないことにイラつく。
一方出来ない私は、出来ない人の気持ちがわかるから、「彼らは出来ないのだ」を基準にしてその目線で見るから、仕事が出来なくてもおっけー。

出来る人にとっては、出来て当り前。出来なければならない。出来ないでどーする!私も努力したんだから、あなたも努力しなさい!という立ち位置で彼らを見るので、彼らがたるんでいる、のらくらしてる、緊張感がない、自分勝手だ、という風にとらえてしまうのだろう。
そのため、無意識に彼らを監視するようになっている。ああ、またやった。ああ、あれもまだできない。。。と、怒りと嘆きでストレスをためることになる。
しかし実際は、彼らも必死で仕事をやっているのだ。



確かに彼女が出来ないことで、私に仕事の負担が来る。ただでさえ私もトロイのに、彼女の分まで抱えるから、なおさら遅くなる。これまで以上に忙しくなった。何で私がここまでやらないといけないのだ?と、仕事の出来る人視点に立ちそうになる。
だがここでこそ、意識の実践をやらんでどーする!



起こってくる出来事は、すべて自分に何かの学びをうながしている。
この世を嘆く材料をあたえるために起こっているのではない。

この世の苦は目の前に起こっていることに抵抗するから苦しいのだ。
今あることすべてを肯定する。

私は今に集中した。今自分がやっていることだけに心をフォーカスさせた。
この時間までにこれを終らせて、あれを進めてと、ノルマのためにしょっちゅう気にしていた時間。

しかしいつも見ていた時計も見ず、未来を考えず、自我が騒ぐ声にも耳を傾けず、ただからだが動くままに動いた。

するとその世界が広がりはじめる。短かった時間がゆっくり動き出す。今が輝きはじめる。時間が消える。人々がやさしくなる。

新人さんはやりたくないと抵抗していたものを、自らやりはじめた。
「おお!やれば出来る子、YDK!」とほめたたえる。笑顔が広がる。



これまで私は自己嫌悪の塊、罪悪感の塊、自己否定の塊の人間だった。
その私が自分を徐々に赦しはじめた。あれもできなくてもいい。それもできなくてもいい。
あれも赦す、これも赦す。。。。
そうやって自分を赦していくうちに、人まで赦せるようになってきた。
赦すとは、自分自身をそのまま受け入れていく作業なのだろう。
ああしなければいけないとは、自分を受け入れていない、抵抗していることだったのだ。


この社会は、出来る人が基準になってものごとが動いている。出来て当り前。出来なかったらクズ!
それではあまりにも苦しい。
そんなに必死になってお金を稼がなきゃいけないのか?
そんなに必死になって売り上げを上げなきゃいけないのか?
その意味は何?

ほんとはみんな幸せになりたいだけじゃないのか?
その基準がお金?
お金持ちだから幸せ?あまりそんなふうにはみえないけど。
持っている人は、もっと持とうと必死じゃないか。
これエンドレスじゃね?

ああじゃいけない、こうじゃないといけない
という心の声に、私らは耳を傾け過ぎ。
その声に従って、私らは右往左往させられてきたんだ。

けどその声は、自分を破滅に向かわすだけ。


その声を、疑ってみる。



絵:似顔絵/河村たかし市長


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