2018年6月20日水曜日

京都の旅 フィナーレ


約束の時間に一時間も早くついてしまった。

鴨川と高野川が合流する三角州、鴨川デルタでぼーっとする。霧雨の降る朝は誰もいない。靴を脱いで裸足になる。旅の疲れが地面にスーッと抜けていく。

対岸を通勤の自転車がときどき走っていく。37年前、私はここにいた。紫野にある織ネームの会社のデザイン室に自転車で通っていたことを思いだした。その時は川を眺めたり、自然を味わったりする余裕などなかった。はじめての社会人。この社会についていくことに必死だった。



京都の旅のフィナーレは、ある女性と会うことだった。

彼女とは高尾の山で知り合った。物語りはここでは語りきれない。
彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の性格、彼女のファッション、彼女の才能、彼女の仕草、そして彼女の感性。強烈な印象を私の心に残して、高尾山のふもとから筑波山のふもとへ、そして筑波山から京都は比叡山のふもとへと、花から花へ渡る蝶のように渡っていった。

英国でイングリッシュガーデンを学び、高尾で日本の大自然に溶け込んで、独自の感性を磨いて来た彼女。その感性は、今京都という土地にどんなふうに反応するのか、どんなふうにメタモルフォーゼさせていくのか、一人の目撃者として覗いてみたかった。

待ち合わせ場所はかつて私が住んでいた場所、出町柳。
これも不思議な縁だ。ある日彼女がフェイスブックに載せた、見覚えのある商店街の写真に目を見張った。どうして彼女がここにいる?
彼女は今出町柳から出る叡電の駅、比叡山のふもとに住んでいた。

「よっ!」
「よっ!」
まるで先週も会ってたかのように、あいさつしあうふたり。
すこし緊張するような、どこか照れくさいような、へんな感じ。
高尾で会う時は、寝起きのまんまのような格好だったのに、白いシャツを着た彼女は大人びてみえた。これから仕事に行くという彼女と、旅の途中の私。どちらもよそ行きの格好で会うぎこちなさ。

「あ!なつかしい!ここあったあった!」
「ここは?」
「あー。これはなかったなあ。。。」
出町柳の商店街の中で、お互いの共通項を確認し合う。かつて知っていた場所の私と、今知っている場所の彼女。過去と今が融合し合う瞬間。

その足で、たよりない記憶を辿りながらかつて私が住んでいたアパートへ。そしてあの当時の面影そのままに残っていたアパートに、すこしショックを感じていた。
どこか変わっていてほしかったのだろうか。どういうふうに?
走馬灯のように記憶がめぐる。
あれは、、、あのとき、、、そうして、、、、こうだった。
過去を消したい自分がいたのか。それともいつまでもそこにたゆたよっていたい自分がいるのか。過去の自分と今の自分が噛み合ないジレンマにとまどっていた。



「京都は今、小さな映画館がいっぱい出来てるんだよ」
商店街の中にある映画館の一階のカフェで、彼女は今の京都を話してくれた。
先日、高知で似たような小さな映画館を見つけた事を思いだした。華やかなハリウッド映画とはちがう、地味で奥深い作品が今の若い人たちにじょじょに浸透して来ているようだ。
「ここの二階が映画館。そして三階で、若い人たちに映画作りを教えてるんだって!」

不思議な感じがした。なぜならその前夜、美大の恩師から最近の若者の映画作りの話を聞いたばかり。しかもまったく正反対の意味で。

ある大学に、太秦の映画村の中を使わせてもらえる、至れり尽くせりの映画部という学科が出来たそうだ。ところが学生たちはちっとも映画作りに興味を持たない。昔気質の映画人の教え方に、いとも簡単に逃げ出すのだと言う。

じつは私の元ダンナがその大学出身で、映画作りをしていた。太秦の映画村で映画を作れる学科ができたなどというはなしを聞いたら、ぶっ飛ぶだろうなあ。あのころはなけなしの金で必死に八ミリを回していたのだから。

嬉々として映画を作ろうとしている若者と、やる気のない若者。これはいったいなんだ?

今は簡単に動画が作れる時代。やろうとおもえばスマホでも。ここにきて、フィルム仕込みのスポコン系のやり方では時代遅れということか。
いやいやそういうことではなく、撮ること、編集すること、そして完璧さや畳み掛ける説得力を求めるよりも、そこに現れてくる内容、表現、ムード。今の人々はそんなものを求めているのかもしれない。

先日、立て続けに見た映画も、なんともいえない静けさのようなものが漂っていた。昔は退屈な日常を活気出させるような映画が求められていた。でも今の人々は、あまりにも忙しい日常に、ほんのすこし、ゆっくりと流れる時間や、心が落ち着く静けさの中にいたい、そんな風に感じているのではないか。もしかしたらその時間を味わいに、2時間という映画の禅寺に来るのかもしれない(笑)。
そこに今の人々が求めるヒントが隠されてると感じた。



その後美味しい京都のおばんさいの店でお昼を堪能する。
そして古いジャズ喫茶でチャイを飲む。彼女はもうそこでは常連さんだった。

京都はどこに行っても、どれを見ても極まっている。時代がどんなに変わろうと、京都はいつも京都だ。たとえ観光客にふりまわされようと、それは昔っからのこと。その度ごとにふわふわとゆらゆらと生き抜くしなやかさと強さをもっている。
彼女はもう既にその気質をもっている。


高尾に戻って、彼女と一緒に買った双葉の豆餅で、ひとりビールを飲む。

高尾山から比叡山へ、そっと私の伝言を届けてもらおう。
「たのもしい彼女に乾杯」

雨にぬれた緑がいっそう美しく輝いた。





絵:紙絵/アケボノソウ





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