2017年4月9日日曜日

心の旅へダイブ


心の旅を続けている。

わたしは、何気ない自分の行為が、人に迷惑をかけているのではないかという思いに囚われている。

今、こうしてブログを書く、それを文章にすることさえも、間違っているのではないか?人に迷惑をかけるのではないか?と、心はつねに戦々恐々としているのだ。
そうは見えないかも知れないが(笑)。

きのうも近所の八百屋さんで野菜を買い、それを家に配達してもらった。
「老人ホームに配達があるから、いいよ。もっていくよ」
と、いってくれる。
配達代はただ。こういうサービスが、八百屋さんの信頼を買っている。

手ぶらでぶらぶら近所を散歩しながら、心の中がざわざわしているの気にづく。
八百屋さんに配達を頼んだことを気にしている自分に気がついた。

持って行こうと思えば持てる量なのに、配達を頼んでしまった自分。。。
いやいや、ダイコンとキャベツがまるまる入っているのだ。重いに決まっている。。。
言葉にならない言葉が、ざわざわとわたしを襲う。
「これ、罪悪感だ。。。。」

人は自分の感情を見ないようにするため、言葉を使う。

なぜ感情を見たくないのか。
それは持ってはいけない感情があるのだという信念がゆえ。

怒り、哀しみ、嫉妬、不安、そして罪の意識。
そういうものは、あえて気がつかないようにするのが私たちの習性になっている。

怒ってはいけない。嫉妬してはいけない。罪悪感はもってはいけない。。。
何かの出来事に無意識にぴくりと反応する自分にフタをする。
見ないフリ、聞かないフリ、気づかないフリ。
もし、それに気がついてしまえば、それをきっかけに、ありとあらゆるがらくたが、心の中にあふれてきて、おぼれてしまう!と、信じているがごとく。

だから誰かを非難する言葉や、自分の正当化などで、心の中を言葉で埋め尽くし、自分の感情を自分で見ないようにしている。

心の旅とは、自分で自分のその心の中を旅することだ。
感情、言葉、感覚。
今、まさに自分のからだの、頭の、この中で起こっている出来事に、直接触れていくこと。
正直に、今感じているもの、そのものに触れていくこと。
ここからすべてがはじまる。

わたしが感じているその罪悪感に、心をよせる。
ただそれだけの中にいる。
そこにある罪悪感を、とりのぞこうと躍起にならない。
その罪悪感を愛おしく観る。


罪悪感をとりのぞこうとすればするほど、それはもっと居座る。大きくなる。ぴったりくっついてはなれなくなる。
それは怒りと同じ。哀しみと同じ。嫉妬と同じ。そして思考と同じ。
考えちゃいけないと思えば思うほど、頭の中の声が巨大になる経験をしたことがあるだろうか。



わたしは八百屋さんに罪悪感を感じていた。迷惑をかけてしまったと。
それはほんとうだろうか。ほんとうかほんとうではないかは、わかりようがない。きっと八百屋さんに聞けば「だいじょうぶだよ」というだろう。でも本心は、わかりようがない。

人が罪悪感を感じる底には、別の考えがある。
罪の意識を感じることによって、
「わたしは罪の意識を感じるいい人間である」
と、自分を自分に納得させたいという隠れた意図がある。
じつはそれは「人のため」ではなく、「自分のため」に、行なっていることだった。

自分の感情を知り、それを見る心の旅。
ひとつの感情は、たったひとつの出来事からストレートに現れてくるものではなく、その人が体験してきた出来事、思い、信念などが複雑にからみあい、つむがれたもので出来ている。

表れて来た感情に心を寄せることは、恐ろしい魔物を見ることではなかった。
むしろ、自分を愛おしく思いはじめる。
こんな感情を持つのは当然だったなあ。。。としみじみと味わうことさえできる。
その後ろに隠された、今まで気がつかなかった、自分がそうせざるをえなかった理由もみえはじめる。

心の旅は、自分の感情を観る旅であり、そして自分の身体を観る旅でもある。

思考を離れ、感覚の中に意識を研ぎすませる。
その時、わたしは今にある。
閉じられていた扉がじょじょに開きはじめる。
小さい頃、開いていた扉だ。
大人になるにつれて、閉じられてきた扉。

深い深い意識の海に、心を泳がせて行く旅は、まだはじまったばかりだ。
深くダイブすればするほど、心もからだも軽くなっていく。


絵:「人はなぜ砂漠で溺死するのか」メディアファクトリー新書表紙


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