きのうアニメの「河童のクウと夏休み」を見た。
カンドーしちゃったなあ。河童のクウがめっちゃかわいかった。キャラクターのかわいさと動きのかわいさがあいまって、ホントにいるみたいだ。
以前図書館で借りた本が、「こりゃ、めちゃくちゃおもろいわ~」って感動してたものが原作だった。知らなかった。
やまんばは、河童や天狗やぬらりひょんや座敷童やあかなめや、わけの分らん生き物が大好き。どーやって生きてるんか、何してるんか、何考えてるんか、さっぱりわからんものが大好きや。
そんなこと言ったら、植物も昆虫も動物も、何考えてるんかさっぱりわからん。そこが大好きや。
わしがここ高尾が気に入ってるのは、その、わけの分らん世界が生で広がってて、まるで日本昔話の舞台そのものだからだ。道ばたのお地蔵さんの後ろからひょっこり河童が顔のぞかせそうだし、うっそうとした樹々の枝に天狗が乗っかって、こっちを見ているみたいだし、その絵本の世界の中にそのまますっぽりと入って、やまんばまでがそこの主人公のように思えてくるからだ。
そーいえば、わしがずーーーっと心の中でだいじにしている舞台は、幼稚園から小学3年までいた高知の小さな村だった。そこを起点として、いろんな妄想が広がっている。時々出かけていって、その空気をひそかに味わって帰る。そこはやっぱり物語の舞台のよう。
人間ってさあ、もうだいたいのことは「知って」しまったかに思っている。だけど、なんだかちがうよーに思えるんだな。ホントはちっとも知らなくて、むしろ人間より劣っていると信じられている木や動物や昆虫や妖怪のほうが、人間が知らない、まったく見てない、ヘチの方ばっかり見てしまって気がつかない部分を、がっちり、しっかり、知ってんじゃないだろうかって。
河童のクウは、時々へんなことを言う。
「これはとーちゃんの腕だ!」
「なんでわかるんだい?」と人間。
「だって、わかるんだからしょうがねえよう!」
「この手紙を書いたのは人間じゃねえ」
「え~、なんでわかるのよ。ただのイタズラかもしれないじゃない」と人間。
「みればわかるんだ。そうしたほうがいいってこともな」
人間は理屈で考える。これはこうだから、こう。それにはこーいう前例があって、「科学」でこーゆーふうに「証明」されてて、、、というふうに。
だがその「お科学さま」だって「あんれれれ?なんかちがってるう?」ってことが日々更新されてんじゃねえか。そのお科学さまを信仰しすぎて、世の中こーなっちゃった。
クウは心の中がしずかだ。人間は心の中がさわがしい。
科学ではこうなる、理屈ではこうなる、ああじゃない、こうじゃない。そうやって心の中で考えて考えて考えて。
たぶんクウは、考えてわかったんじゃない。
ただ「わかった」んだ。
そこには理屈も科学もない。
人間の直感は、どんなコンピューターよりも速いと聞く。そんな時左の脳を使っている暇はない。どっか知らないところから、ふいにおりて来るのだ。ふいに「わかる」のだ。
それは心を静かにしていないと聞けない「声」なのだ。
今の時代、徹底的に「頭で考えろ」と畳み掛けてくる。そっちに向かえば、ほとんど自滅に向かう。それは直感で「わかる」。
河童のクウは、なぜか迷いがない。じっと考えて、臨機応変に対応する。
彼は何か大きなものをつねにつかんでいて、それとともにあるように見える。
自我というか、思考というか、左の脳で考えることと共にいるかぎり、答えは出せない気がする。それは生まれてから教えられたことだけだからだ。考えないと不安になるから考えてなんとかしようとする。けれども、そこから導き出されるものは、混乱しかないようにおもえる。
とーちゃんの腕をおおさわぎして科学でDNA検査したところで、
「ああ、それはクウのとーちゃんの腕だ」とわかるだけだ。
だけどクウの心の中は、もっとたくさんのとーちゃんとの豊かさであふれている。それがとーちゃんの腕だったというちっぽけな現実を証明することだけじゃないのだ。
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