2013年12月28日土曜日

元旦計呪縛



クリスマスも終わっていっきにお正月ムード。 
この時期になるとやまんばはユウウツになる。暮れの大掃除やお正月準備。べつにやらなくていい。やれという法律はない。なのにやらずにはいられない。で、イヤイヤやる。
なんでやらずにはいられないのか。

「一年の計は元旦にあり」

この言葉はいい言葉であるが、呪縛もする。

「一年の計が元旦にあるならば、その日一日の行為がその年のすべてを物語る」といってるようなもんである。とゆーことは、その日一日がサイテーだったら、その年一年間はサイテーである。といってるようなもんだ。
これはおどしでなくてなんなんだ。

その言葉の後ろにある「おどし」にやまんばはヤラレているのだ。

いいたかねえが、女衆はいそがしーのだよ。
掃除や料理の準備やなんやかやで、くれはちょーいそがしい。おまけに年越しそばなんつーもんを年越すあたりでくわなあならん。
ひーひーいいながら作って、正月元旦はこれまたいつもとちがう椀やらお屠蘇の準備やらで、「美しく」もりたてなけりゃならん。

で、それがうまくいかなかった日にゃ「一年の計が元旦にあ」ったりするもんだから、もーたいへん。その日一日が全てを決めてしまうのだ!

だから女衆は死活問題。ダンナの昇格、子供のお受験が、あろうことか奥さんの元旦の力量にかかっているのだ!

んなわけないだろ。
だけどやまんばも含めて国民の何%かは、その言葉に呪縛されてしまうのだ。

しかし。去年の今頃、風呂掃除しているとき、久しぶりのぎっくり腰になってうんともすんとも動けず、まさに「寝正月」だった。
で?どーだった?身内は何かとあったけど、やまんば自身はいたってヘーオン無事。1年の計は元旦にはなかった。


イヤイヤやっていることって、ほんとうにイヤだからやっているんだろうか。
やまんばは正月の料理は作るのイヤだ!っておもってる。だけどそれはその「元旦計呪縛」が苦しめてくるからイヤなだけじゃないだろうか。

もしその呪縛が、ほんとは呪縛でなく、「豆を食べるのは一年をマメマメしく」「数の子を食べると子だくさん」「昆布はよろこぶ」などのように、お正月の言葉遊びなのだと考えたなら、もっと自由になれるんじゃないだろうか。

わしらは恐怖によってあらゆることで自分を不自由にしている。
ああしないと、こうなる。
こうしないと、ああなる。
その方程式は事実なのか?
数々の恐怖による呪縛(方程式、観念、常識、思い込み)によって、本当の自分の気持ちがわからなくなっているんではないだろうか。

その外からもらった呪縛で感情的になり、不快になってるから見えなくなっているんじゃないだろうか、自分の本当の気持ち。

元旦計呪縛をどけてみる。そして自分にきいてみる。
「つくしはお正月がほんとうにキライ?」
あの華やかさを思い出す。日本の凝縮された美が、あの瞬間に輝いている。
「ううん。大好き!」

呪縛をどけてみると、ほんとうは純粋に楽しんでいる自分がいるんじゃないだろうか。


そこにフォーカスするだけでいいのかもしれない。
ただ楽しいからやっている。
ただうれしいからやっている。
ただやりたいからやっている。

そこには何の呪縛も、動機の理由もない。

どうしてそれをやるの?

え~。わかんない。
ただやりたいから。    

そのとききっと今そこにいる。


2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

一年の計を計った事ない私です・・・。
初詣も、生涯で10回くらい??お賽銭は・・多分5回くらい・・。書き初め10回以下。
でも、何とか、この年になっちゃった・・・(笑)

つくし さんのコメント...

それもまためずらしいタイプのパターンですねえ。

ある意味、自由人だな。
うらやましい。。。
わしも見習おうっと。