2012年9月29日土曜日

傷をふさぐ当て布



近所のおばちゃんが、ナスとピーマンをくれた。
「ありがとうございます。なんもお返しもできないですいませ~ん」
「いいのよ~。気にしないで~」
と感じよく挨拶を交わしてウチに戻った。

帰ると作ったばかりのバナナパンがあるのを思い出した。ああそうだ。お年寄りなら柔らかいパンなんか好きかも知んない。。とおもって、すこしもっていく。
「あの。。。」
おばちゃんは、私が何かを持ってきたのを見た瞬間、顔色が変わった。
「何を持ってきたの!そんなものをもらうために渡したんじゃない!そんなものをもらうくらいなら、あげなかったわ!」
さっき渡したナスとピーマンを返してちょうだい!と言わんばかりの顔をした。やまんばはびっくりした。すごすごとバナナパンを持って家に帰った。

家に帰って、心が傷ついている自分に気がつく。
「何もあんなに怒らなくっても。。。」という怒りと、
「まずいことしてしまったなあ。。」というはずかしさと、
拒絶された悲しさがいりまじって、じとーっとなった。

うちにあるおばちゃんのピーマンとナスが急にうとましくなった。

こーゆー時ほど、自分の感情をよく観察してみられるチャンスだ。
感情って、ひとつじゃないんだな。怒りと、恥ずかしさと、悲しさが同時にくるんだな。
でもさ、本当はひとつのエネルギーがぐるぐる渦巻いているだけなのかもしれない。それを人間は言葉で名前を付けて区別したがるだけなのだ。
そのぐるぐるするエネルギーをジーッと見る。


ああ、そうだった。
小さい頃、いじめられていた頃、みんなに拒絶されたあの瞬間、あのひとりぼっちな気分。あの時の悲しさと怒りと自分への恥ずかしさは、今も心の奥に残っているのだと思い出した。そして似たような状態がおこると、自動発生的に同じ感情が持ち上がって来るようだ。

人はいろんな所に傷を持つ。特に小さい頃の傷は、どう治していいかわからないから、そこに蓋をするように、当て布をする。時には、アップリケなんかで可愛らしく、悲しいことを楽しさの思い出でふさいでいく。そうやって、当て布だらけの人間が出来上がるのだ。だけどその当て布の下には、あの時の傷がまだ残っている。ずーっと奥の方にしまっていても、同じようなことが起きると、その傷がうずくのだ。そしてあの時と同じような心の反応をする。

その傷は置いておいても消えることはないようだ。死ぬまで持っていく。だが消す方法はある。それは、その傷を見ることのようだ。

人はイヤなことはできるだけ見ないようにする。
処世術として、対処療法として、とりあえず、イヤなことを目の前から消したい。それは痛いのを消したいというのと似たようなもんだ。だからアスピリンを飲む。しかしいつのまにか、痛いことを消すという方法が、主流になってしまった。本来は痛みがくる原因の治療が大事だというのに。

そろそろ私の当て布治療はやめることにする。本来の治療をすることにする。

その感情を心にとどめたまま、じっとそれを見続ける。いつのまにか小さい時の自分の姿を思い出している。そのなさけなーい自分の姿もじーっとみる。見ることでそこに光を送っているようなのだ。まさに傷口に光を当てているようなものなのだろう。いや、本来私たちは光そのものなのだから、自分で自分の光を思い出しているのかもしれない。
そうやって飽きるほどやってみた。
心が軽くなっているのに気がついた。

こうやって少しずつ、自分自身の中の傷を癒していくんだろうな。すると当て布はどんどんはがれていって、フルパワーのやまんばに戻っていくのだあ!

晩ご飯に食べたおばちゃんのナスとピーマンは、おいしい味がした。


2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

そうだね・・・そんな言い方は無いよね・・。

つくし さんのコメント...

きっとその人は、
「人からものをもらってはいけない!こじきじゃあるまいに!」
という条件づけを持っているのかもしれないなあ〜と思いました。