2010年10月9日土曜日

欠点の快感




町中にキンモクセイのにおいがあふれている。わたしゃ、キンモクセイフェチ。このにおいが、くわ~たまらんのじゃ。鼻をおっぴろげて勢いよくずーずー空気を吸いこむ。ほとんど過呼吸になって、うしろにぶったおれそーだ。
しかし今年のキンモクセイは、ちと濃厚な気がするが、気のせいだろうか。自分ちの庭にキンモクセイがある近所の友だちも「においすぎてムカムカする」といっていた。確かに息するたびにこのにおいが入って来るときついかも。


今日の日めくりカレンダーに「他人の欠点より、長所を見よう」と書いてあった。
長所を見る方が人間関係しあわせにちがいない。しかしこれにはちと意志力がいる。なぜか知らんが、人は他人の欠点は眼につきやすい。なんで?

人は人の欠点を見る事になれているんじゃないだろうか。自分も含めて。テレビつけたって、悪いことした人のニュースばっかり。だれがどーしたの、こーしたのと人の揚げ足ばっかりとって話題にする。
「こんないいことする人がいました」とニュースになるのはめったにない。

つまり無意識に人は他人の欠点を見るくせがついているもよう。学校から帰ると、お母さんが、近所の人の悪口を言っている。晩酌をするお父さんがテレビに出ている政治家にむかって、「こんな奴はダメだ」といったりする。学校では朝礼で校長先生が「昨日ダレソレが補導された」という。
その批判的な眼は自分にも注がれる。おかあさんに、「ちゃんとしなさい!」といわれるし、おやじに「おまえ、そんなことで将来どうする気だ?」と脅されるし、先生には「こんな成績でどーする!」と小突かれる。
え~ん、世の中人の欠点みることだらけだあ~!

と、そんなこんなで、他人の欠点は見えやすいのだ。
もっと突っ込むと、そこには意地悪な気持ちも入っている。
「あの人、あんなことするのよ。や~ねえ~」
という瞬間、自分は高みに位置づけられる。高みにたつことで、自分を実感できる。ふんふん。私ってあいつより上。。。
そしてまた、自分の欠点も見えやすいのだ。
「あ~っ!またおバカなことしちゃった!ど~しよ~!」
この場合、やったことをみるわけではなく、やって動揺している自分を感じている。

ここでこの二つの行為はいいとか悪いとかという判断はしないで聞いておくれ。この二つの他人と自分の欠点をみるという行為は、なんというか「自分を実感できる」行為なのだ。自分がここにいる。確実にここに存在していると思える行為なのだ。

反対に、「あの人いい人よねえ」とか「ああ、わたしってえらいなあ」と思う瞬間には、あまり生身の実感がない。はい。イメージしてみてくらさい。
悪口を言っている時間って、けっこう長くない?
逆に肯定している時間はあっさりとほのぼのと、そしてさらっと一瞬の出来事じゃない?
じと~っと、「あたしって、えらいなあ~~~~~~~~~~~~~。ああ、あたしって、えらいなあ~~~~~~~~~~~~~~~~」
と、延々と長くはつづかないでしょ?え?つづく?そりゃ、ナルシストだな。

でも人の悪口は延々と長くもたせることが出来る。「あのやろ、このやろ、おぼえてろよ、そういやむかしこうだった、ああだった、もぞもぞもぞ。。。。。。。。。」と心の中でマイブームできるのだ。悪口はついでに人にも話せる。「あの子って、こんなことしたのよ~」「え~~~~~っ、それってひどくない?」「そーなのよ、そうそう」「だいたいあの子ったらねえ~。。。。。。」と、人と楽しむことも出来ちゃう。人の欠点というのはおもしろおかしく遊べるのだ。政治家も、タレントも、ダンナも。

そして自分の欠点も延々と悩み続けることが出来る。あたしってダメだわ~。と。特に私のように自己嫌悪病の人間はそれにいそしむことが出来る。「ゲ、編集長にあんなこと言っちゃった。やべ~、もう仕事来ないかも。。」「お天気なのにふとん干してない。カビ来るかも。。。」「高知にしばらく帰ってない、どーしよー」などと、勝手に自分遊びが出来ちゃうのだ。

人は自分の中で何かを考えている時間が好きなのだ。それは人によって全く違う。自己嫌悪するのが好きな人、人の悪口言うのが好きな人、そして心配することが好きな人。。。無意識に考えている内容はたいていネガティブなことじゃないだろうか。そしてそれは何よりも自分を実感できる行為なんじゃないか。自分という存在、名前のある一個の、他人とは独立した存在。その心の内は誰にも侵されない自分だけの世界。。。。自分自分自分私私私。。。

ところが、他を肯定する考えはあまり自分を実感できない。「○○さんて、いい人よね~」と独り言言っている瞬間、そこには自分という実感が希薄だ。試してみて欲しい。何かを肯定している瞬間、自分を感じられるだろうか。山がきれいだと思う瞬間、ここにいる自分が希薄に感じないだろうか。○○さん、いいなあ~と思う瞬間、自分が希薄にならないだろうか。なんというか、とろけていくような、自分と他人が境界線がなくなるような穏やかな曖昧な感覚にならないだろうか。

つまり、欠点をみればみるほど、他人と自分に大きな境界線が出来、自分の欠点をみればみるほど自分というものが肥大化していき、自分というものの存在をがつんと感じることが出来る。反対に長所を見れば、他人も自分も曖昧になって来る。そこにはおおらかなあったかさがあるだけである。だが自分というものを実感できにくいのだ。

だから人は無意識に他人や自分の欠点をみようとするのだ。それは自分がここにいる!という感覚をもち続けていたいからかもしれないのだ。
そう、じつはそれによって自分を実感するという「快感」を味わってしまったからなのかも。。。。


絵:雑誌表紙

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

そりゃあ、ぱっと見たときに、凹んでる
って認識しやすいけど、出っ張ってるのは
見方変えなきゃならない。からかな。
リンゴのヘタと、おしりのトコが凹んでる
風に見えるけど、実は他がとこが出っ張っ
てるのかも知れない。

つくし さんのコメント...

くわ〜、なかなかしゃれたコメントですなあ。
なるほど、へこんでいるように見えるのは、他がでっぱっているから。
じゃあ、欠点が見えるのは、他が長所だらけだから、ということか。
ということは、この世は長所だらけじゃあないかー!

なかなかいいこと言いますなあ。(意味、これで合ってる?)