2010年8月4日水曜日

心配して疲れ果てる

朝起きると、私は自分の頭ん中がもろもろの心配事で溢れているのを感じる。起きたと同時にコンピューターが作動するのだ。ソフトはシンパイゴトレーターバージョン10。

このままでいいんだろうか。
いっぱい仕事しなきゃ。
老後はどうなる?
親の面倒は?
庭の木の手入れはほったらかしだ。
ああ畑。。。

などなど、あとからあとから怒濤のごとくあふれてくる心配事。人の頭の中をのぞいてみたら、きっと心配事でいっぱいにちがいない。その心配事の根っこは恐怖から来る。ほんとは今そこにはないのに、先に起こるかもしれない事を考え、ああなったらどうしようと心配するのだ。
それは、そうなる前になんとかしなきゃと思うからだ。でもそうなるかどうかは全く分らない。人はどこで死ぬのか、どこでコケるのか、一秒先はまったくわからないのだ。それなのに、その先の事ばかりを心配する。今この瞬間、心地よい風が吹いているかもしれないのにそれを感じる暇がない。

なんかさ、世の中の風潮って、どっかで
「何かをつねに考えている事がえらい人」
みたいなもんが妙にみんなにインプットされてね?
「風?そんなもん感じている暇があったら、なんか考えろ。考えんでどーする!」
みたいな。なんか策を練っていないと、とんでもない事になってしまうと思い込んでいる。だから転ばぬ先の杖、なんて言葉があるのだ。石橋を叩いて叩いて、またまた叩いて、その先に渡るかどうか考えている間に、叩くのと考えるのに疲れて、そこに座り込んでいるのだ。

「考える事」は言葉で成り立っている。言葉は常に過去のものを考える道具なのだ。どこかで知っているものしか知覚できない。
「なんかさー、言葉にならないものってあるよね~」みたいなものがあるのは知っているが、その言葉にならないものが未知の部分。言葉は既知の分野にあたる。知っている事はすべて過去に属する。自分で体験はしていないけど、本で読んだ事があったり、テレビで見たり、人に聞いたり。けれども自分でじっさいに体験する事は人ともテレビとも本とも違う。ところがそれが言葉にされると、ひとくくりになる。「山」といったら、人によって富士山を思い浮かべる人がいるし、エベレスト山を思う人もいる、はたまた山奥に住むやまんばを思い起こす人も。(そりゃ、わしか)言葉はあまりにも暴力的にじゅっぱひとからげにされてしまうのだ。ちょうど多数決の原理のように。

つまりその過去の記憶の道具によって未来を考えているのだ。よく考えたら、そんなもん考えられるわけないじゃないか。それなのに自分の未来を人の経験や自分の過去の経験に照らし合わせて考えているっちゅう、矛盾を抱えているのだ。

行き着くところ、そこには何の答えもないと言う事じゃなかろうか。不安なのだ。不安を解消するために、先に先に考えている。想像できない未来を想像して、答えの出ない答えを求めて、人々は疲れ果てているのだ。

あー、朝から疲れるのー。

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

結構微妙な話なのですが、我々の業界もとにかく
忙しい=偉い。的業界なのですが、出世する人の
共通点は、美味しいのは自分、不味いのは他人。という判断基準を持ってることです。
このばやい、微妙と言うのは、「彼が」「私が」
やったから、この成功!という報告に対する事実確認は普通は行われない。事ですね。
結果的に成功(and失敗)体験が次に生かされない。悪循環です・・・。

つくし さんのコメント...

む、むずかしーお話ですね。
私の仕事と違って、はっきり誰それがやった事で成功!や失敗!というのがわからないから、反省のしようがないって事なんでしょうか。
みんな、いい事は自分のおかげと思いたがり、悪い事は人のせいにしたがる。人ちゅうのんはほんと、とことん煩悩の固まりですなあ〜。