2010年5月8日土曜日

地のもの




「あたしはね、この土地にお嫁に来て40年経つんだけど、まだ地のものじゃないのよ」
近所で畑をやっているおばちゃんは言った。

彼女に言わせれば、自分はまだ地のものじゃないから、この土地では一人前に扱ってもらえないのだそうだ。ではいったいあと何年いたら、地のものになるのか。おばちゃんは答えられなかった。
地のものになったら一人前。そんな法則がこの日本にはある。京都にいた時もそんな言葉はたびたび聞かされた。
「よそさんはよそさん」
何十年住んでもずっとそういわれると友だちは言う。

地のものがそんなにえらいんか。そこで生まれて、育って、ずっとそこにいる。それがそんなにえらいんかい?それはそこの土地の法則を知っているということだ。逆にいえば、他の土地の事は知らないということにもなる。地のものの反対語は、よそもん、風来坊、素浪人、流れ者、ということになろうか。しかしそれをよしとする言葉もある。世間師。世間を多く渡り歩いて来た事でいろんな事を知っている。世の渡り方も知っている。世の人々も知っている。いろんな土地も知っている。
昔の人々はそういった旅の途中の旅人を迎え入れて、自分たちの知らない土地の事、風習の事、技術の事などいっぱい話してもらったという。それをヒントに風習や習慣を変化させていったとも。またある説によると、女衆はときどきダンナをほっぽっといて2、3ヶ月旅に出かけるそうな。その長旅の間によそを知り、どこかの子をはらみ、もどってくる。そのときに身につけたよその知恵や習慣を村にもって帰り、村の知恵を育てていったとも。
昔の話をひもとけば、日本の昔は今思うように保守的だけではなかった。じつはおおいにおおらかに、したたかに生きて来た形跡が残っている。男女平等や伝統という言葉はきっと昔にはなかったろう。むしろそれがなくなったとき、その言葉が生まれてくるのではないだろうか。そしてあえて、男女平等をうったえ、伝統を重視する。そうやって人は自ら自分に手かせ足かせをはめていくのだ。

私も流れ者の一人だ。生まれてから引っ越した数、ざっと数えて15回。これから地のものになろうとしても、40年以上かかるわけで、その頃には私は89歳。そんな年寄りになっても地のものにはなれない。この地で死に絶えてやっと地のもの(つまり地面にしみ込む)になるわけだな(笑)。


おばちゃんは、そうやってずっとこれからも「私は地のものではない」と思い続けていくのだろうな。
「きゃらぶきはねえ、お水を入れちゃダメなのよ。お酒とだしとお醤油だけで煮るの。お箸も中に突っ込んじゃダメ。お鍋をもってゆするのよ。あたしはそうやってここで教わって来たの」
畑の中でおばちゃんはうれしそうに話してくれた。


絵:coopけんぽ/サントリーニ島

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

まぁ、理屈じゃないんですよね。
箸使って何が違う?って言っても始まらない。←地元のルールだから。

つくし さんのコメント...

箸使う地元って。。。。
ものすごい範囲の広ーい地元だね。
アジア村っていう。。。
そこまでいくといい感じ。

え?フォークとナイフ使う地元との対決になる?

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

あ、いや、「きゃらぶきはお箸を突っ込まず、お鍋をもってゆする。」っていう
から・・・。
ちょっと、表現悪かったね。
正確には、”箸使ってナニが悪い!”だね。

つくし さんのコメント...

あ。勘違い。失礼すますた。

微々たる違いなんだよね。お箸使う使わないは。でもその微々たる違いが、地のものにとっちゃアイデンティティーになる。
そういう事を引いてみられる視点を持った上で、郷に入れば郷に従えと付き合っていくのがいいんだろうね。