2010年4月3日土曜日

どこでもせいち〜

「あなたの前世はこれこれこうで。。。」
「あなたの背後にこういうお方が見えます。。」
と言われたら、ぞくぞくする。
おお、この世には私を守ってくれているお方がいらっしゃるのねとか、私が不幸なのは、過去世にイケナイことをしてしまったからなのね。と、想像するのは楽しい。
聖地というところに赴き、その空気をありがたくちょーだいするのもまた楽しい。私もアメリカやイギリスやエジプト、そして日本国内の聖地巡りをしたたぐいだ。
いわれのある場所に出向き、そこから溢れ出るエネルギーをちょうだいする。ちりあくたにまみれた自分のココロがきれいにされる感じがする。お伊勢さまにいったときもなんともいえない清々しい気分になったものだ。
今も高尾の麓に住み、高尾の聖なる空気を頂いている。。。。。

と、おもうでしょ?
でも聖地は遠きにありて思うものかもしれないなどと、ふとどきものはおもうのだ。(そりゃ、ふるさとは、だろ)

じっさい高尾山はそれこそ清濁合わせ飲んだ場所のようにおもえる。神仏混合、日本中の神様は節操なくあっちゃこっちゃに祭られているし、四国出身のわたしにとっちゃなじみ深い八十八カ所巡りもある。これがまたちっこいんだー。1分で巡れる(笑)。現世利益、来世利益、当たり前。数々の人の願い事で溢れている。おまけによく人が死ににくる。ここいらの町内会の人は滅多にお山に入らない。よく「でくわす」からだ。
近所のじじいが「おう、あそこの沢に今度一緒にいくべ。おもろいもんみっけたど」何でも服毒自殺する人は、最期に水を飲みたがる。それで沢で水を飲んだらさいご、あっというまにいってしまうのだそうだ。じじいの話だからほんとかどうかはしらない。
「このまえなんか、スッポンポンのネエちゃんが見つかってよお。ええもん見たど」とほざいておった。
「んでその沢にいる仏さまはどーするんじゃ?」ときくと、
「ほっとく」とのこと。それでええんかーっ!
ほんとにもお。私が知らないのをいい事にからかっている。じっさいほっとくわけがない。

現実問題、高尾のボランティアの人に聞いた。山に遭難者が見つかるとその人を運び出すのに、21人は必要なのだという。山道は険しい。人が担いで降りるしかない。運び出す人、途中で後退するメンバー、そして医者、その他専門的な人々も必要になる。
「もう、本当に大変なんだよ、だからやめてね」と言われた。
はい。すいません。


聖地と聞くと、つねに清々しい清浄な空気が溢れてるように思うが、ここ高尾は、住んだかぎり、もっと地べたに近い、いやめり込んでいるといった方がいいか。なんといおうか、すべてを飲み込む大きなおなかを持ったお山なのだ。ニンゲンの業を全部ひっくるめて「ええど。何でももってこいや」という場所。だからその土手っ腹にトンネルほられてもへーきなのだ。(へーきってあなた、だまってるからそうおもうだけでしょ)

そこらへんにお山の懐の大きさを見るのは私だけか。近年はあれがいけないこれじゃだめだとなにかにつけてうるさい。けど、高尾山はふおっふぉっふぉ。。と声高らかにニンゲンのどたばたを笑っているように見える。人間の視点とは全く違う視点を持ったものにみえる。
今のわたしにとって高尾は、触れて壊れるような繊細な存在ではない。彼等(?)は、人間の解釈になにもいちゃもんをつけない。ただ、そこにあるのだ。この感覚をどう言葉で表現していいのかわからない。あまりごちゃごちゃいうと、言葉の遊びみたいになってしまう。でもなんと言うか、そのおおらかなふところは、人間とはまるで違う視点を持っている。そういうかんじがするのが、私は大好きなのだー!

たぶん高尾だけじゃない。他のお山も全部同じなのだろう。人間が勝手に「ここは聖地!」と決めただけなのだ。だれかが何かを感じてここに印を付けると、そこが目印になって他の人もやってくる。やってくると人はなんだかありがたーい気持ちになって拝む。それを見ていた人もまたありがたーい気持ちになって拝む。んでせっかくだからと、ほこらが出来て、人が集まるからと、お茶屋さんが出来て、ついでに記念にとお土産物まで作ってもってかえらせる。そうやって人が集まれば集まるほど、そういう空気が漂い始め、またそれを感じたくなって人が集まってくる。
そんなふうに聖地って出来たのかもしれない。という事は、どこでも聖地なんじゃないか?
ドラえもんじゃないけど、「どこでもせいち~!」っちゅうて、どこでも拝んじゃえるわけだ。

そうなってくると、いちいち聖地に行かなくても、そこが聖地なのかもしれない。私が静かな気持ちになったとき、私は聖地にいるのだ。前は毎年お伊勢さまに行きたくなったのに、今はどこにもいかなくなった。行かなくてもここがお伊勢さまだ。

心を清めてくれるものをそとに求めても、それはかえって心を窮屈にする。もしアレがなくなると困るし、そこに行けなかったらこのケガレは祓えない、のでは苦しくないか?行った場所であれこれ「記念品」をもってくるのもやめた。その物にどこかでたよってしまうからだ。そしてあったらあったで、その呪縛にとらわれてしまう。

そう考えると、自分の前世がアレで、守護霊がコレでというのも、どこかでそれにすがって、今あるこの自分の状況から逃避しているようにおもえてきた。聖地や前世や守護霊は、今あるがままの自分の姿を見ないためのレジャーの一つなのじゃないのだろうか。遊びで言っている分にはいいけど、それが本気になってしまうと、自分の不幸を過去世のせいにしてみたり、うまく行かないと守護霊にばかりたよってみたりしないか。元気がなくなるとエネルギーをもらいにあっちの聖地、こっちの聖地と渡り歩いて、かえってへとへとになったりして。

苦悩の原因を外に求めたり、救いを外に求めたりしてもぐるぐる回るだけのような気がする。聖地と呼ばれる場所に住んでみて、色々思う。自分探しでぐるっと旅して、けっきょく自分の中にすべての原因やすべての救いがあるのだと思った。
私の本棚は、神秘主義、宗教、オカルト、スピリチュアル、そして誰も買わない怪しげで、ちょーオタクな本などで埋め尽くされている。でもなんだかそれも卒業しつつある。

高尾のお山がうながしてくれたのだ。

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

そうなんですよね。
死ぬのも人に迷惑かかってしまう。
簡単に死ねないねぇ・・・。

つくし さんのコメント...

簡単に死なないでよ〜。畑やる事いっぱいあるんだから!(って、そんな理由かよ)

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

まぁねぇ、酒飲めなくなっちゃうだろう
からね。もちっと頑張りましょうか。

ボトルラベルの件、家族に伝えておきます。

つくし さんのコメント...

どーせぱぱさんのことだから、あっちの世界にいっても、いつまーでーもお酒飲んでるんちゃうか。
んで、神様に「おまえ、ええかげんいせえよ」ちゅうて、天国追い払われて、またこの世に戻って来たりして。