2010年3月24日水曜日
ここは渋谷か?
高尾は霊園がてんこもりだ。
年に二回、高尾は渋谷になる。
お彼岸になると駅周辺は人、人、人でごったがえす。ご先祖さまを偲んで花を手向けるのは美しい光景だ。が、なにも同じ日に集中しなくてもいいと思ってしまう。駅前のバス停にずら〜っと並ぶ人、霊園に続く長〜い渋滞。ご先祖さまがこの光景を見ておられたら、へとへとになってやってくる身内を気の毒がられるに違いない。
もし霊魂が存在するとしたなら、ご先祖さまはカレンダーを見て、
「あ、今日はお彼岸だから、あの世(つまり私たちの世)に戻って孫の顔を見に行くとするか〜」
といって、墓の周辺をうろうろするんだろうか。すると他の霊魂たちも同じ墓の周辺をうろうろして、
「あっ、どーもどーも。半年ぶりのごぶさたです」
なんてお隣のお墓同士、ご挨拶なんてかわしたりするんだろうか。
「あれ、お宅はまだ来てませんねえ。ほら、これ。ウチのひ孫です。かわいいでしょ〜」すると左隣の霊魂さんが、
「○○さんところは、ここん所ご家族がおみえでないのよ。あまり刺激しちゃだめよ」
「あっ、こりゃ、しつれいいたしました」
なんてお隣同士気づかったりなんかするんだろうか。
なんか、死んでもこの世と何の変わりもないノリなところがおもしろくないなあ。窮屈そうだなあ。しかしご子息が墓に来るのこないので、一喜一憂したり、ご子息の態度いかんによって、かれらの未来を先祖が決められたりするもんなのだろうか。死んだ人はそこまで力があるんだろうか。
ウチの家は、私が一人っ子でヨメにいき、両親は離婚。家族3人は、完全に別々の墓に入る。父方の墓も彼とそのお嫁さんが入れば無縁仏になる。母方も母とおばが入ればそれも無縁仏になる。私もダンナの長野の墓に入れば、それで無縁仏になる。見事に絶えてしまう運命にある。たぶんみんなを見送るであろう私は子供もいないので、最後にその長野の墓まで行きつけるかどうかも怪しい。でも墓に入るの入らないのは、ホントのこと言うと私はどうでもいいのです。
道ばたでノタレ死んだら、線香の一本ぐらい手向けてもらえたら、それで御の字です。あとはホウカイして、生き物のえさになれたらなによりです。
こんな考えなもんだから、みんなが疲れた思いをしてお墓参りにいくのが気の毒なのです。お墓参りは、ふと思い立った時、亡き人がしのばれたとき、単独で行うのが美しいと私は思う。
そんなときはご先祖さまは
「あれ?お彼岸じゃないから気がつかなかったよ〜」なんていわない。
ふと思い立った瞬間、すでにそこにいるのだ。
いや、ホントのこと言うと、最近私の中でゆらいでいることがある。霊魂は本当に存在するのか?お墓参りは、ご先祖さまのためのものというよりは、その人自身の、何かのリセットのためにあるのではないか?と。お墓参りのあとはなぜか心が清々しくなる。そのために人はその行為を無意識に行っているのかもしれない。
霊はいると思えば存在するし、いないと思えば存在しないのではないだろうか。
絵:「モンスター列伝」盛田昭夫
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4 件のコメント:
平均年齢高い渋谷・・・。
少子化が進んで、ホントの渋谷も今にそーなるでー。
ということは、高尾は未来の日本の姿だ!
お墓参り、おつかれさまでした。
死んでから後より、死に際が大事なんじゃないかと思うなあ。俺、親父が死んだときは全身全霊で送ったから、墓参りなんか行く気しないよ。そんなとこにあの親父がいるわけないしさ。もう完全に宇宙の光粒だよ。このまえ、久々に行ったけど、何も感じなかったな。ここには何もないって分かっただけ。
単純な人だったしね。
俺の親父だから。
どうやったら人に迷惑をかけず、苔むす森の中で朽ちはてられるか?とは考えるね。
野生の熊みたいに死んでみたいな。誰に愛される資格もなく、熊みたいなもん食って生きてるし。
半分は罪のつぐない、半分は現代の究極の贅沢として。
くわ〜〜〜、かあっこいい〜〜〜!しんびれるう〜〜〜。
やっぱこういう生き様しないとね。
全身全霊で送ったら、あとはなにもフォローはいらない。ホントにそう思う。
武史も長野の墓には両親はいないと豪語している。レベルが低いかもしれないけど、ユタもあそこにはいないと知っているし、私らは墓参りは行かない。それこそ全身全霊で送ったもん。
人は死ぬ時、身体という大きなものを置いてくでしょ?それは私には絶えられなかった。だから死んだら肉体が消えて欲しいことばかりを考えていた。
でも今は朽ちて誰かのえさになっていくのがいいなとおもう。
半分は罪、半分は現代の究極の贅沢かあ。
うつくしいなあ。。。
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