2009年12月31日木曜日

暮れのテイコー




今回くらい、「お正月」にテイコーした時はない。

もう、なにもかもがいやんなった。暮れの大掃除、年賀状作り、おせち作り!
あれを何日にしなければ、これをいつまでにおわらせなければ、あれができない。うんぬんかんぬん。。。もうたくさんだー!

その「しなければいけない症候群」はなぜ発病するのか。わしは考えた。なんで、単に年が入れ替わるだけなのに、そこまで「しなければいけない」のか?
この日(1月1日)が一年の始まりだとだれが言っているのだ?たかがグレゴリオさんがかってに決めたカレンダーじゃないか。地球が太陽の周りを回り始める出発点でもあるのか?
と、子供のようにだだをこねた。
それでストライキを起こす。もうやめた!

だがそんなだだをこねる心の後ろに潜んでいる、ある心理に気がつく。それは「恐怖」だ。一年の計は元旦にあり。元旦に行う行為、状況がその一年を左右する。すなわち「ちゃんとしていないと、いい事はやってこない」という教えだ。
掃除はくまなくやる。年賀状は25日までに出す。おせちは、豪華においしく、上手に作る。お重には美しく詰める。そして神様に出すお供えや、飾り物は美しく。ああ、そうそう、年越しそばもつくらないと。
というお仕事。ちょっとちょっと、おおすぎるじゃないの?!それをやるのは、わしだ!一人で背負うには重すぎる。
で、結局できないと、自己嫌悪に陥る。そしてそれをやらないから、仕事が来ないのだとか、悪いことが起こるのだとかネガティブな考えが渦巻き始める。

そしてとうとう、手も足も出なくなった。
そう、恐怖で押しつぶされそうになったのだ。すべては私の暮れの仕事次第。私の来年の結果は、その前の年の暮れの行為次第で決まってしまうという恐怖。。。

しかしアメリカ人はそうは考えなかった。「ハッピーニューイヤー!キャー!」と、飲んで大騒ぎして、ハイ次の日からお仕事、だ。この違いは何だ!
彼らは、ただそういう教育は受けてこなかっただけのことなのだ。そういう文化ではないだけの事だ。だから暮れに恐怖で押しつぶされそうになる事もない。

だが私は日本人で、暮れのプレッシャーの中にいる。恐怖の中で、私は自分がどうしたらいいのかわからなくなった。


おそるおそる玄関脇のバラの花の枝を切り始めた。おそるおそる駐車場の落ち葉を集め始めた。すると行為の中で言葉が浮かんだ。
「美を追求する」
そうだ。お正月は日本人にとって、もっとも「美」が表現されるときだ。床の間の掛け軸を美しく飾り、神棚を美しく飾り、料理も極めつけに美しい。そのためには玄関も、部屋の中もすべて掃き清める。きっとこの文化ができた頃は、みんな、それぞれに美を競い合っていたのではないだろうか。今のように、鏡餅はああしてこうして、お飾りはあれでなくてはいけない、などと決まり事はなかったに違いない。黒豆は一年まめまめしく。。。などの語呂合わせは、きっと遊びだったにちがいない。きっと豆しかなくて、それを煮たら
「あ、それって、一年をまめまめしく、なんちゃって」」というと、
「あっ!それや!それでいこう」などとげらげらウケアって、そうやって楽しんで、美を競い合っていたに違いない。それが今ではならわしになり、それをしないと。。。。という強迫観念になったのではないのか。

そして、冷蔵庫を磨き始めたとき、こう思った。
「これは感謝ではないのか?」
冷蔵庫さんが一年がんばってくれたおかげで、おいしい新鮮なものを食べる事ができた。その事への感謝をこめて、きれいにするのではないか?
それは「こうしなければいけない」というプレッシャーとは全く違う視点になる。そう思えば、トイレ掃除も何もかもが意味のある事になってくる。それはきっと自分ができる範囲の事でいいのだ。「一年、どうもありがとう」という気持ちさえあれば、それはきっと冷蔵庫さんにもおトイレさんにも通じるのだ。

つまりお正月のありかたは、ひょっとしたら「美」と「感謝」の表現なのではないだろうか。だとしたら、人それぞれでいいのだ。私はこうして飾る、俺はこうして感謝するのだと、ひとそれぞれがおもう日常への感謝、それがその日にあらわされる。
気がつけば、なーんだ、そんなことか、とおもえてくる。プレッシャーなんてどこにもいらないのだ。いつのまにか私の中からプレッシャーが消えていた。

遊んでしまおう。できる限り、お金をかけない私なりのやり方で。

で、山に行って、檜の枝をダンナに落としてもらう。裏白のシダがないから、別の種類のシダを使う。友達の庭から真っ赤なナンテンの実をもらい、ヒノキとシダとナンテンでお飾りをつくる。それだけで玄関がなんだか豪華に見える。感謝のきもちになると、どこをやってても楽しい。前はイヤイヤやっていたのに。おせちもあるモノだけを使う。あれ買わなきゃ、きゃーこれが足りない!などとスーパーに走り回らなくても良い。だから忙しくもない。やれることだけやる。年賀状ももうやめてしまった。それで仕事が来る来ないが決まる、なんて法律はない。

考えたら、あたりまえのことだった。でも一回ぜんぶテイコーしたから、気がつく事がある。
いつもはバタバタした暮れだが、なんだかのんびりしたお正月をすごせそうな気がする。


絵:けんぽ「冬景色」さぎりき〜ゆるみ〜なとへの〜、のうたです。おぼえてる?

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

なるほど・・「やらなきゃ!」の感覚から
「やりたい!」へ感覚が変わったってこと
でしょうか。
仕事も「やらされてる」から「やりたい
からやってる」にならないとつらいもんね。

今年もよろしく!

つくし さんのコメント...

こちらこそ、今年もよろしく!

百人一首は「???」って感じだったけど、
やったら、「またやりたい!」って気分でした。

なんでも挑戦だなあ。

ありがとうございました!