2009年9月20日日曜日

すべては完璧




私は最近こう思う。まあ、私の勝手な思い込みですんで聞き流しておくんなまし。

この肉体というものは、本来完璧なものなのじゃないんだろーか。ほっておいたら、すべてが滞りなく循環しているものすごい叡智の塊で、すごいバランスでもって動いている完璧なコンピューター、いやコンピューターなんて言ってしまったら、どこかに欠陥がありそうに思えるので、「生き物」とでも言おうか。これは私たちがまったく関与できる次元のものではない、私たちの心や頭が動かしているものじゃないなにかのような気がする。だって、寝ている間でも心臓さんは動き、血液は循環して、消化も行う。細胞は生まれては死に生まれては死にをくり返す。これは私がまったくもってやっていることじゃない。

ところがここに私たちが関与できることがある。それは「壊す」ことだ。その完璧なバランスを崩したり、壊したりして、果ては病気というものにまで持っていくことが出来る。それはなにか。心だ。心と言う考えでもって身体を崩すことが出来るのだ。(あんまり名誉な関与じゃない。つーか、なさけない?)

インドのヨギがいう。
「ニンゲンが老いて死ぬのは、まわりに老いて死ぬものたちを見ているからだ」と。
つまり、人は自分のおばあちゃんやおじいちゃんが老いて死んでいくのを見ているものだから、単純に「ああ、人は老いて死ぬもんなんだな」と思っているだけだと。だからそのように自分もするだけのことなのだと思い込んでいるだけなのだといっている。
それは心と言う存在がそういうものだと思い込むことによって、その身体をそのように持っていくということだ、というのだ。それはそのおじいちゃんおばあちゃんもまたそのおじちゃんおばあちゃんの死を見てきたからなのだ。だから延々とその連鎖は続いているだけのことなのだ。
もしそれが本当なら、ニンゲンはすげー回り道をしている。

でもその言葉は畑をやっていても感じるんだな...。自然はそのままで完璧で、そこに種をまくのはニンゲン。そこで虫が葉っぱ食べたり、草でおおわれたりして「こりゃあたいへんじゃあ」と刈ったり薬蒔いたりする。するとそれまで完璧なバランスをとっていたその場所がだんだん崩れてくる。その崩れてくる様子を見て、またあわてて何らかの処置をする。そしてドミノ式に崩れていく。

野菜は肥料で育つと考えている。ほんとだろうか。
人は薬で治すと考えている。ほんとだろうか。

大きな視点に立ったら、野菜を虫に食われるのはその場所に馴染むための過程なのかもしれない。その種が持つ性質を、その場所に馴染ませるために必要なことなのかもしれない。自然は人間が作ったアンバランスを、その種がその地におろされた時点で、それがそこでいっしょに共存できるように調節してくれているのではないか。

最初にニンゲンが種をまく。そこに自然のバランスの崩れが始まる。
それは完璧であるニンゲンの肉体という大地に「心」という種がまかれることによって肉体のバランスが崩れはじめることに似ていないか。ニンゲンは老いて死ぬという考えの種が蒔かれることに。



その種を今もう一度考え直す時期が来ているように思うんだな。
じつは心だけがそのハーモニーを壊しているだけなんじゃないのだろうか。最近本当にそのことを考える。一体その種というアイディアはどこから来た?それは自分のウチ側からわいてきたアイディアではなく、どこかで聞きかじったアイディアじゃないのだろうか。

ニンゲンはそんなに小さなものじゃない。そんなに弱いものじゃない。もっと大きな存在だ。ただ誰かのアイディアで、お母さんに言われたことで、先生から習ったことで、もっと努力をしろとか、必死で働けとか、ニンゲンは弱いものなのだから守に守ってガードをして生きるのがいいのだとか、自分を小さくしろと思い込まされているだけだ。
だが自然と同じようにニンゲンの身体も臨機応変に変化するのだ。ニンゲンのおよびもしない叡智によって淡々とそしてダイナミックに生かされているのだ。
たとえ心の種によって身体のバランスが崩れても、また再生されるではないか。今そこにあなたも私も生きているように。なんちゃってねー。

絵;教科書「走れメロス」より

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

難しい話でやんすね。
他の動物と比べて、人間が唯一「笑う」とか言いますが、これは、犬とか飼ってれば、すぐに違う。とわかる。
じゃ、何違うかといわれてもそんなに違わない。守るものがめっちゃ多い。
他の動物は、家族守ったり(自分はもちろん)、家守ったり、縄張り守ったりしてますが、所詮そのくらい。人間は生きてくために必要な量以上の財産や食べ物守ったり、全く”生きる”ことに必要のないコレクションとか守ったりします。
もちろん、本能的に自分のものを守ってるのでしょうが、その量たるや、一生かかっても使い切れなかったりする(うまやらしいけどね・・)。それが進化(進歩かな?)の結果と言えるのかな。
必要分か、不要分か。判断は難しいやね。いまさら動物レベルにはたち戻れないし、進歩を否定しちゃうと、こうやって反省もできなくなる・・・。

つくし さんのコメント...

まったく生きることに必要のない「コレクション」は、じつはそれをすることで自分の存在を自分で確認していたりするんで、それ自体が生きているという実感なんでしょうなあ。そういうへんな癖みたいなものがこれまたニンゲンは面白い。
人生に色を添えるのは、そういうものなんでしょうね。