2009年9月8日火曜日

考えてどーする!




「感情」というものは人の心を相当に振り回すもんのようである。
ついでに「考え」というものは感情とくっついているもののようである。

ダンナとケンカする。ハラ立てる。ソンでそこからいろんな考えが浮かぶ。
「あのやろう。こんなこと言いやがった。今度ああ言われたらこう言ってやろう」とか「あんなやつは、ぞうきんのようにしぼりきって、ふんずけて、そんでもって、ゴミ箱にポイだ」とか考えている。(え?あたしだけ?)

ヒマだとそんなことを考えて妄想にふけられるが、忙しいと考えてられない。いつのまにか忘れていたりする。しかしいつまでも忙しかったらいいが(なんでやねん)、忙しい合間にも、人の心は暇を持て余すようである。作業をしながら、また「あのやろう」と考えていたりする。しかし、その考えの果てにはあまりいいアイディアは浮かばない。たいていはネガティブの雲に包まれたままになっている。

身体の調子が悪いときもそうだ。「ああ、頭が痛い。どうしよう。これがガンだったら....」などと、妄想が膨らむ。この妄想はどうも決していい方向に進まない気がする。
まちがっても「ああ、頭が痛い...。どうしよう...。ガンだったら...。あっそうだ!これはきっとこれからいいことが起こる前兆に違いない!」などとポジティブに考える人なんかほとんどいない(と、おもう)。
たいていは、どこかで聞きかじった「知識」というものを押し入れから引っぱりだしてきて、ひょっとしたらこれは血液がどろどろになっていて、脳にたまり、ある日プチンと...!なんて思いついちゃって、その後の自分の姿などをイメージしてどんどん泥沼に入る。もんもんとしたまま、気がつけば夕方になり、夕飯はとーっても気の抜けたヘルシーな(あたりまえだ。気がちっているので)ご飯になっちゃったりする。んで、ダンナに「なんだこりゃ」なんていわれて、またムカついて.......。

ようするにだ。
ニンゲン考えるとろくなことに行きつかない、という結論に達する私であった。

仕事でアイディアが浮かばずもんもんとする。それこそ必死で考える。あれやこれや引っぱりだしてきて机の上は資料の山。で、もう頭がいっぱいになっちゃって、ぼーっとお山を見る。と、そのとき突然にそのアイディアが横に幽霊のように立っていたりするのだ。今までずっとそこにいたかのように。「びびび...びっくりするなあ。おどかすなよ。ずっとそこにいたの。なんで気がつかなかったのかしら。そうそう、これこれ!」みたいな。
そうすると、いままで力こぶ作って必死(「必ず死ぬ」と書く)で考えていたことがなんだったのーと力がゆけるほどになるのだ。


だいたい考えるときは、人は無意識に左の脳で考える。右の脳で考える人はいないかも。右の脳は直感とか本能をつかさどるからあたりまえなんだけど。だから「考える」という行為は、ロジックで、科学的で、よく人が考える、ついでに言うとテレビで脅かすところの内容の、わたしにいわせりゃ、「つまんない」アイディアの方向にしかいかないのだ。ところがぽっと浮かぶアイディアはトンでもなくハッピーだったりする。「えええ〜、なんでそんなことおもいついちゃうわけ?」と。

昔アリゾナを旅行してガイドしてくれたインディアンのデービットに言われた。西の空から雨雲がざーっとやって来たとき、「あ、雨がくる」と私が言うと、彼はさっと私に言った。
「考えるな!」と。
毒蛇がいっぱいいる河原に来た時も言った。
「考えるな。考えるとヘビがくるぞ」

デービッドはニンゲンの想念は、悪いものを呼び込む性質があるのを知っていたのだろう。

さて最近私はあまりにもつねに「考え」ている自分に気がついた。その考えは感情もくっついているものだ。なぜかというとその考えにはたいてい「解釈」がくっついているからだ。頭が痛い→悪いこと→いやだ。頭が痛いという考えに、「これは悪いことなんだ」という解釈がついたとたん「いやだ」という感情が動く。

じつは頭が痛いというものは、たんに現象があるだけなのだ。ところがそれに人は良い悪い、ソンするトクする、などと解釈をつけるのだ。これが人をネガティブにするはじまり。
もし、この世が「頭が痛いことは、これからいいことが起こる前兆なのよ」などと教えていたらどうなるだろうか。人は頭が痛くなる度に「ヤッホーッ!」っておおよろこびだ。そうであれば今の世はどんなにハッピーだったことか。
でもいかんせん、骨の髄まで頭が痛い=悪いこと、とつながってしまっているこの世のジョーシキだからおいそれとこの「解釈」をはずすことは出来ない。けれどもそれを「観察」することはできるのだ。

先日、私は猛烈にお腹が痛くなった。トイレでおもいっきりナニをだした。しかしまったくおさまる様子もない。七転八倒の苦しみだったが、そこではたと気がついた。これは痛い=悪いことという思いがよけい恐怖心をあおっているのだと。そこで私は痛みから感情を出来るだけ排除する。排除する手っ取り早い方法は、「観察」するのだ。私は強烈なお腹の痛みを観察した。
すると猛烈なエネルギーが、お腹の中で内臓がねじれるんではないか?と言うぐらいのたうちまわっていたのだ。そのエネルギーは音を立てんばかりの大きさで、小腸から大腸をゆっくりと回転しながら移動し、まっすぐ下に降りた。と、そのとたんビチャーッ(失礼)。
あとはまったく痛みが消えていた。

昨日耳かきするお店で働くお姉ちゃんが、お客に殺された事件をみた。かんちがいしたお客が耳かきのお姉ちゃんに無視されたのを恨んで、それを解決するには殺すしかないと思って殺したのだそうな。これなんかも考えが極端に行った事件なんだろうな。
最近よく耳にする言葉で「許せない」というのがある。その考えの果てには決してポジティブな結論は出ないだろう。

私も含めてほとんどの人が自分の「考え」の渦の中でもんもんとしているのではないだろうか。たぶん日本人が歴史始まって以来ぐらい一人一人がここまで考えている時代はなかったんじゃなかろうか。そういう意味では時代の犠牲者だ。たぶんどこかで、考えていないと不安なんだろうな。でも考えたってへみたいなアイディアしかでてこない。自分の人生、どこかでゆだねることかもしんない。


とりあえずニンゲン、やるはめになったことを淡々とやる。
どーしても人は考えちゃうけど、その考えと考えのスキマには、宇宙の真我に通じる道があると言う。私が考えすぎてお山をぼーっとみたとき、スキマが出来たのかもしれない。そのスキマからぽろっとアイディアがふってきた。

スキマスイッチというバンド名は最初ふざけた名前だと思っていたが、どうもすごーい深ーい名前かもしんない。


絵:coopけんぽ表紙「栗拾い」

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

そう。私の場合は、他人と論争したときは、ふ~んって(ぼーっとか?)聞いて、別れた後から「しまった、ああ言っとけば良かった!」と思うのです。つまり反応鈍いし、引きづるタイプ。損だよね。

あと、やなことあると、人間思考の幅が狭まるよね。厄介なこと両手一杯持ってるときには、次に何かやって来た時「これ以上無理~!」って思うけど、考えてみりゃ、手ぇ話しちゃえば、いくらでも持てるんだよね。(ってそれが出来りゃぁ苦労はないけど・・・)

さて、今晩も酒飲んで忘れたろ・・。

つくし さんのコメント...

近所に「姫」って名前のチョーあばれメス犬がいるんだけど、いつもウチの犬ユタと会う度大げんか。
そのうちの犬がいなくなっても相変わらず私に吠えまくるんだが、ニオイを嗅いで、吠えまくるまでに30秒ほどかかる。だからすれ違ってとーっと後ろの方から吠えまくるのだ。
ニオイを鼻で感知して、それがユタのニオイだとお脳に伝わるまでに時間がかかるらしい。そのあとは延々と吠えまくる。

まいううーぱぱさんのパターンに似てる?

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

同じ。・・・とは言いづらいのですけど・・・。

つくし さんのコメント...

失礼、失礼。
だんだん調子に乗っちゃうとこうなります。