2009年7月16日木曜日

美とは何ぞや?




美とは何ぞや?
それは隠されていて、すぐには見えないもんである。

何気ない日々の営みの中に、はっとする瞬間がある。それが美を発見する瞬間である。木漏れ日が落とす光が、地面に少しだけ不思議な絵を作る。草の青、鉱物の色、そしてその光と影。風が吹けば今までの絵は一瞬のうちに変化し、絶えずその絵を新しく生まれ変わらせる。大自然に二つとして同じ葉っぱがないように、この世の美は、一瞬一瞬生まれ変わる。刹那を生きる。60分の1秒の中に今がある。1分前の私はもういない。1分前の樹々はもういない。一秒に何億個という細胞が生まれては死にゆく。すべては何も変わっていないように見えて、実はものすごい変化の中に私たちはいる。絶えず変化しながら、つねに同じ形に作られていくこの私たちには、大いなる意識が存在する。その意識が、すべてを作っては壊しているのだ。今この瞬間にそれが起こっている。ニンゲンの考えもおよばないところでこの世は動いているのだ。わっはっはーっと高笑いしている存在が、私たちの背後にはいる。そのおよびもつかないものが織りなす叡智。それこそが宇宙の完璧なのだ。そしてそれこそが隠された美なのだ。美とは、そのトンでもない宇宙の叡智をかいま見せてくれる、ということなのだ。

作家はその叡智を人々に提示する役割を担っている。
「みなさん、これが美ですよ〜」と。
けれどもそれは全員が出来ることなのだ。

与えられた美だけを「さあ、私を感動させてちょうだい」と求めていても、だんだん飽きてくる。ディズニーランドも、ティファニーも、ウエッジウッドも、美を提示してもらっているだけなのだ。それをよろこばせてもらっているだけなのだ。その時は楽しいに違いない。けれどもニンゲンの魂という奴はもっと厄介で、「まだ足りない」と思いはじめる。だから心はもっともっとと次々と新しい美に移り変わっていく。そこにゴールはない。だから死ぬまで探し求める。でも飢えた心は満たされない。
それは受け身だからだ。
豪華なソファにどっかと座って、大型画面のテレビを幾ら眺めても、そこにあなたを満たしきる美はないのだ。


美は隠れている。
美という名の宇宙の叡智は、テレビ画面なんぞにはうつらない。

その重い腰を上げて、自らが探しにいこう。本当はそのソファから立ち上がった瞬間から美はすぐヨコについてくるのだ。


絵:『イルカ』けんぽ表紙

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

不思議なもので、美しいものを感じる能力のある人と、感じない人。
感じる人の中にも、その「美」を描き出せる人とできない人がいるのですよね。
「美」を感じることはできないけれど、他の人に「美」を感じさせる能力のある人もいるのでしょうかね・・。

つくし さんのコメント...

そう、まいううーぱぱ。
あなたがその「美」を感じさせる能力のある人です!

あなたは美しいです。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

げげ。
何をおっしゃいますやら。
50代のアルチュハイマーおやぢつかまえて。
(^m^;)

つくし さんのコメント...

ぶはー、うめえなあ。
アルチュハイマーですか。
どっからそんな言語みつけてくるんすか。
まったく、たまらん美ですなあ(そんな美かい)。

いやいや、いつも「美しいなあ〜」と見ております。