2009年2月9日月曜日

自分の中のモンスター




思想的ないろんな本を読んでいると、最終的に誰もが言っている言葉がある。
「汝自身を知れ」

ここんところヒマぶっこいているうちに、鼻をほじっているのにも飽きて、自分の内面をさぐりはじめる。まるで山の中に住む仙人みたいだ。ある日、高尾のふもとに住む仙人は、自分の内側に鎮座するモンスターを見つけてしまった。それは前から何となく気になっていた、あの「監視人」がその正体だったのだ...!

人はこの社会に生まれ落ちた時は純粋だけど、荒波にもまれるうち、サバイバルを乗り越えるためにある種のワザを見つける。そのワザはものの考え方だったり、存在をもってしまったりする。私のばあいは、私の中に自分を監視する存在を作ってしまったのだ。

過酷な状況に追い込まれると、人はその状況からどうにかして逃れたいと思う。
最近、『銭ゲバ』というドラマを見ている。秋山ジョージが描いたマンガが原作になっている。主人公が置かれた幼い頃の家の状況が、私の小さい頃を思い起こさせる。主人公はそういう状況を通して、「世の中、すべて金ズラ」という考え方になっていく。卑屈で、いやらしいくらい世の中を呪っている。その気持ちはよく分かる。私も卑屈で、いやらしいくらい自分を呪った。学校や家で人に殴られ続けると、心はどんどん荒んでいく。そのはけ口を外に向ける人もいれば、内側に向ける人もいる。私のばあいは内に向けた。
「こんな存在は消えてなくなった方がいい」
「こんな存在はいらない」
そう、口走る私がいた。そういう苦しい状況を乗り越えるために、私はあるアイディアを考えついた。このような悪いやつを生かすには、管理をする必要がある。こいつは監視させよう、と。ウマい事を考えついたものである。警察官の娘は、自分に専用の警官をつけさせたのだ。

まるで「私のような存在は、本当はいてはいけないのですが、このような監視人をつけさせましたので、この世にいてもいいでしょうか?」と誰かにお伺いを立てているかのように。



さて、それから(自分に)監視をされる時代が始まった。なにをやっていても「つくしちゃん、あんたなにをしているの」といわれる。「ああ、またやった。このへなちょこ」といわれる。
「しまった病」は、この監視人が「ほーら、またやった」というからである。

「それはあなたが一人っ子だったからじゃないの?」
先日、高校時代からの友達にそういわれて気がついた。そうなのだ。私のまわりにはアホな事をしでかす子供がいなかったのだ。まわりは大人ばかり。私のようなすっとぼけた事をしでかす人間などいなかった。この世で自分だけがアホな事をする存在だと思い込んでしまったのだ。だから徹底的に自分を責める。一人っ子はそういう意味では、逃げ場のない状況を作ってしまいがちなのかもしれない。


そうやっていつのまにか40数年間この存在とともに生きて来た。たぶん友達がいなかった私は、この存在を友達にしていたのではないだろうか。
でもここにきて、それは私にとって自分を小さくさせるだけのものでしかない事に気がつき始めた。よくよくそのアイディアをチェックしてみると、私を明るくしてくれるようなアイディアはない。どちらかというと、やりたいと思う事を頭から否定したり、楽しいと思う事を楽しんじゃいけないと言われたりするのだ。
つまり、私がやる事なす事をことごとく否定する存在であったのだ。

ある時、私が〆切に追われて仕事をしていると、頭の中で声がする。「あんた、仕事やっているばあいなの?自分の作品を作らないでどうするのよ」
イラストレーターとは不憫なものである。依頼された仕事と自分自身からでてくる作品はなかなか一致しないものである。それがゆえに、依頼仕事以外にも自分自身が描きたいと思う作品を開拓していかなくては、次の仕事にはつながらない。だからたえず仕事をやりながら新しい作品を自分自身が作り上げなければいけない。
だからその声が内側で聞こえた時、
「おお、そうか。作品作らねば」と自分の作品を作りはじめる。するとまた声がする。
「なにやってんのよ。仕事しないでどうするのよ。〆切迫ってるんでしょ」という。
「ああ、そうだ。仕事しなきゃ..」と仕事に向う。と、また声がする。
「あんた、なにやってんのよ。自分の作品作らないで次の仕事が来ると思う?目先の仕事にばかり追い回されてるんじゃないわよ」と。
「ああ、そうだった。作品、作品、と.....って、ちょっとまてよ」
私は自分の声に振り回されていた。頭にきた私は、さっさと仕事に向った。

なんだこりゃ?と最初は思った。でもこの存在が24時間態勢で作動していた事に気がついたのは、つい最近の事だ。

たぶん、その存在はある時期までは有効だったにちがいない。けれどもしらない間に時間は過ぎ、私自身は大人になった。でもその存在はいつまでも私が作ったあの時代のあの年のままなのだ。たぶん5歳ぐらいの.....。ある日、私は5歳の女の子の言うことをずっと聞き続けていた自分に気がついて愕然としたのだ。

私は5歳ぐらいの時、その存在を作ってしまったのだ。47歳になった今でも(もうじき48歳)その子の言うことを聞き続けている。「だめでしょ、つくしちゃん。いけないわよ、そんなことをしたら...」ところが私自身は47年間と言う時間を通して社会を知り、大人を知っていった。ある程度は人や社会を理解している。その私が、たった5歳の女の子の言うことに振り回され、聞き耳を立てていたのだ。
そんな状況はよく考えてみれば、アホだ。心が分裂するに決まっている。


それからは、その子がしゃべるタイミングをチェックしはじめる。おそろしいことにそいつは四六時中しゃべっている。私が何かアイディアを考えつくと、「いや、それはだめよ」という。人に褒められると「そんな言葉はおついしょうに決まっているでしょ。まともに受け取っちゃダメよ」という。青空を見てほっこりしていると「何ぼけっとしてんのよ。仕事しなさい」という。その声を聞く度に、「ああ、そうだった。仕事仕事」と、聞き分けのいい従順な家来に成り下がるのだ。

つまり私はこれまでの人生、もっと心が楽しんでいたかもしれない事を、その子のおかげで楽しみきれていなかったのではないのか?

私はその子の言うことに耳を貸さなかったらどうなるのか実験してみた。

いいアイディアが浮かぶと、「だめよだめよ」といいつづける言葉を無視する。人に褒められると、その言葉をありがたくそのまま受け取る。青空も、仕事を気にせず味わい続けた。

すると人に褒められるとうれしいし、青空も前より楽しめるようになった。それからなによりもびっくりしたのは自分の体が軽く感じるようになったのだ。

ほんの小さなことで、「私ってやさしい心を持っているんだなあ」とか、「お、気が利くじゃん。私って案外いい人なのね」とか思い始め、自分という人間に価値があるような気がしてきたのだ。

とはいうものの、40年間近く居座っていた彼女は、そう簡単にはいなくならない。ほんの些細な事ですぐその感情が戻ってくる。細胞の一つ一つにまで深く浸透していたのだ。敵はそう甘くない。いつでもどこでも神出鬼没なのだ。けれどもこれは一つのゲームのようだ。一つ一つ見つけてはクリアしていく。その度ごとに心も体も軽くなっていく。

これはまさに「汝自身を知れ」という言葉の入り口なのかもしれない。
この5歳の少女こそが、シュタイナーが言った「境域の守護霊」、ラムサが言った「ニューロネットの発火」、そして指輪物語にでてくるガンダルフが戦う「モンスター」なのだ。

そうやってクリアしていく間に、なんとなく自分自身の『本性』と、今世生まれて培って来た『性格』とは、じつは違うのではないかと思い始めて来た。

ひょっとしたら、思想的な本や宗教家が言う「自我」や「エゴ」とは、その私が飼っていた(作り上げた)5歳の女の子そのものなのではないだろうか。
恨み、ねたみ、ひねくれ、怒り、恐がり、哀しみ....。すべてのネガティブな感情をその子は持っていた。
でも人は言う。人間とは感情の生き物で、人間から感情を取ったら、スタートレックにでてくるスポックのように面白みのない生き物になってしまうのではないかと。
ではそのネガティブな感情がこのゲームによって消えていったなら、私は人間的ではなくなるのだろうか?

ネガティブな感情をもった今世の私は、私自身がもともと持っている本性とはちがっていた。今その感じがなんとなくわかる。その本性は、もっと人間的なのだ。いや、人間以上のようなかんじさえする。
身長158センチの私は、5歳の女の子を連れているからこそ、158センチなのだ。
もしその子をすべて自分の中から解き放ったら、いきなり私の身長は3メートルほどになってしまうかもしれない。

自分を解放するということは、そういう自分の中に飼ってしまっているモンスターの呪縛から解放されるということなのかもしれない。知らない間に自分で自分に手かせ足かせをはめてしまっていた言葉、
「世の中とはおそろしいもの」
「あなた、常識を知らないの?」
「人間は所詮、老いて死ぬだけの生き物」
「あんたの考えている事なんて、たかが知れているのよ」

これらの言葉や思いが、自分を限界のあるものにし、重力に影響され、小さなものにし、重苦しい泥の中にのたうたせていたのかもしれない。

実は私たちは自分自身の本性や本領を、忘れているだけではないのか?


「銭ゲバ」の少年時代のような環境は、必ず私が望んだものなのだ。こういう環境に居ながらにして、どこまで飛び立てるか、どこまでそのような人間の心の弱さを理解できるのか、を、自分で選んできたに違いない。今はそれを受け入れる事が出来るようになった。

これからの作業は、自分自身の本性を思い出す事なのだ。

絵:コージーミステリー『珊瑚の涙』表紙

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