2025年7月18日金曜日

苦しみよこんにちは

麦汁プッシューっ!
ナスとピーマンの甘味噌炒め



 苦しさで目が覚めた。

時計を見たらまだ夜中の1時前。

まだまだ夜は長いなあ。。。


何に苦しいのかわからない。

昼間の出来事を振り返ってみるが、これといって問題など見当たらない。

ただグレーの何もない平面が私の前に広がっているだけだ。

だがそのグレーの平面がどうにも苦しいのだ。

実際それが目に見えているわけではないが、心がその映像を見ている。


最近そういうことが頻繁に起こる。

それまでは苦しさの原因があった。

あの観念が私を苦しめている。だからその観念を渡してしまおう。

そういう具体的な心の動きがあった。


しかし今は漠然としている。

何というわけでもない。

ただ苦しい。



心の訓練を続けるうちに、苦しみがある時は必ず何かを学んでいる最中で、

とても大事なことを知ろうとしている時だとわかってきた。

だからここから逃げない。


コースの文言が浮かぶ。

「神は一日中私に語りかける」


そうか。この苦しい今も神は私に語りかけ続けてくれているのだ。

それを聞こうとしてじっと耳をすます。


神に意識を向けてしばらく経つと、

目の前のグレーの平面が細かい砂がサーっと落ちるように消えていき、

白くてツルツルした何かが見え始めた。

一本の棒のような骨のような、、、

よくわからないがつるんとした何かが見え始める。

それと同時に苦しみが消え、

静けさと確信のようなものが心に満ちていた。


その変化が起こった時こう思った。

その苦しみは、本当は神が近くにいるからなんじゃないか?


神の存在を苦しみで隠しているのではないか。

それは神に対する抵抗なのではないか。


神を近くに感じれば感じるほど、自我の抵抗が起こる。

自我はそれを私に苦しみと思わせ、そこから逃げろという。。。


そりゃそうか。

私が神を選んだら、自我は速攻消えていくのだから、自我も必死である。


神に抵抗しているのは私ではなく、自我とくっついた私だった。




コースを学んでいる人と話をした。


心を見始めると、自分がいかに自分を否定しているかを知る。

例えばその理由の一つとして、

人と自分を比較したりして自己否定をさらに増幅させていることを知り始める。


比較しておびえる自分に気がつくが、

「また比較しているのね私」と言って、さらっと受け流すこともできる。


それは一瞬の精神衛生上必要なことかもしれないが、

ある意味「これ、知ってる。こういうことでしょ」
と言ってわかった気になり、

その感情を納めてしまうことでもある。


「人と比較していることはよくない」という思いと一緒に、

おびえる心も、その言葉によって心の奥に隠蔽してしまう。

それはもったいない話なのだ。


出てきた感情はそのまま受け取ることもできる。


おびえる感情は、消えていくために出てくる。

出てきてくれてありがとうなのだ。

その苦しさをじっと味わおう。




苦しみよこんにちは。


こんな軽さではできないかもしれない。


でも苦しみを受け取ることは、心の強さ。


そしてそこが自由への入り口なのだ。







和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです

2025年7月15日火曜日

信頼ってなんだろう




 心の中がどんどん静かになってくるにつれ、

日々の出来事の中で、自分が何を信じているかが、次々にあぶり出されてくる。


「君は自分のことは大胆にできるのに、

そこに人が絡んでくると、途端に恐れの中に入る」


そうなのだ。私は自分にとっての常識的なことはいくらでも平気で無視することができる。

だがそこに他人が絡んでくると急にちぢこまる。


それは人に迷惑をかけてはいけないという「常識」だ。


警察官という父のもとで育ったせいか、

ルールや規則や法律に関して過剰に反応する。


今回新たに旦那の写真集を作るにあたり、

ある人物の写真を載せたいという。


私の心が凍りついた。

著作権はどうなる?人権侵害に当たらないか?訴えられたらどうするんだ?


自費出版で部数もほんの少しだし、誰がそれを見る?と説得させられる。


いやいやそういう問題じゃない。私を説得しようとするな。

これは私の恐れの問題だから私が自分で処理する。

もうそれ以上話すな。

しばらく激しいやりとりがある。


だが彼とのやり取りの中で、

法律という名の下に、人を信頼しない自分を見る。


そもそもその写真は美しい。

その人物の美しさを表していることに人権の侵害はあるのか?

その人権侵害の基準はなんだ?どこに線引きがある?


いやいやわざわざそんなものを出して来る必要はない。

何事も穏便に済ませておくのがいいのだ。。。


この思いの中に恐れが潜んでいる。

こと無きを得るためにとは、そこに恐れがあることを暗に示している。

穏便に済ますとは、その恐れをそのままに残しておくだけなのだ。


恐れとは、人を信用しないことからくる。

自分と他人は分かれていて、その他人は私を脅かすと。


そんな写真外してしまえばいい。

ただそれだけなのに、私の心は動揺する。


訴えられるとしたら、彼であって私ではないのに、

ここまで恐れる自分をまざまざと見せられた。




美しい自分の写真を見て、人は怒るだろうか。

今までの私は、「怒るに決まってる!」と思ってきた。

それは「人は私を攻撃する」という信念を持っていたからだ。

どんな事情であろうと、人は攻撃すると。


だがその攻撃する人物がいるという思いは、

自分が攻撃することができると思っているからなのだ。

自分の中に攻撃心がある限り、人も私に攻撃してくるはずだと。


穏便に済ますことは自分を守るということであり、

それもまた防衛という攻撃なのだ。  


それは自分と他人は違うという信念に過ぎない。。。




「この間、僕の問題について君は教えてくれただろ?信頼することを。」


人権問題はちがう!。。。と言いかけて、同じだと。


信頼ってなんだろう?

他人を信頼する。

自分を信頼する。

自分の人生を信頼する。

世界を信頼する。


言葉で言うのは簡単だが、実際これをするのは意志がいる。

それも一旦そうするのではなく、ずっとそれが継続されること。まったく全的に信頼するのだ。

それはひとつであることを証明する。



人の美しさを公にする。

それは愛からではないか。


たとえそれで訴えられて処罰されてもいいではないか。

そこからまた新たな学びがある。









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2025年7月11日金曜日

我思うゆえに我あり


 

ある朝目覚めたら、ものすごい喜びでいっぱいになっていた。

うれしくて飛び跳ねたくて、その場でぴょんぴょんしてもいいくらい。

ちっちゃな子供がはしゃぎまくって最高に楽しい!って感じ。


な、なんだこれは?

その理由を探した。

ずっと手こずっていた自分の作品集の版下作業が終盤に入ったからか?

そんなことでここまでうれしくなるかなあ。

なるとしたら、完全に入稿が終わってからだろうに。


とにかく謎の喜びのまま、ジムに行く。

車の運転は苦手な私。いつもおっかなびっくり運転している。

それが危うい接触事故を起こしそうになった瞬間も平然としている。

あ、抜けた。よかったね。終わり。

いつもだったら「ヤバイヤバイ、あんなことしなきゃよかった。もしぶつかってたら今頃、、、ああ、なんてことをしでかしたんだ私。。。。」と延々と続くはず。



ジムでマシーンを使いながら周りの様子を見る。

私も含めてみんな必死で体を鍛えようとしている。


そういう様を見ながら、

自分は体ではないという思いがあることに気づく。

私は今、体というものを味わっている感じがした。


ややこしい言い方だけど、こんな感じ。

「完璧じゃないものをわざわざ作って、完璧を目指す」

ということを物質という体を作って味わっていると。


できる、できない。

達成する、達成できない。

自分は未熟だ。

そういうことを味わっている。

ひたすら味わっているのだ。


だから、たとえ目標を達成しても、そこで満足できない。

またすぐ新たな目標を探し始める。


そのまんまでいられない。





だがこの体が私という観念がなかったら、

私に物質はない。

私という考えだけがある。


朝の喜びは自分と体はくっついてなかった。

ただ爆発的な喜びだけがあった。


思いだけがあり、

その思いには形はない。


それこそが完璧なのではないか。



その思いが、物質という衣をまとったとたん完璧さを失う。

その衣は、衰え朽ち果て、やがて死んでいくのだ。


私はただ不完全さをずっと味わっている。。。

マシーンを使いながら、その不完全さを味わっている自分を見た。


これに終わりはない。

ここに満足は見出せない。

この先には何もない。。。。



自分は体ではないという不思議な感覚をずっと持っていた。

こういうことなのか。。。

これは言葉にはしずらいなあ。。。



その夜、草刈りをしていない庭のことを突然思い出し、

ほったらかしにしてジャングルのような庭にしてしまった自分の罪悪感に引っ張り込まれ、一晩中その苦しみの中にいた。


草ぼうぼう、大家さんに怒られる、周りにみっともない、だらしない私、やらなければいけない、でも暑くてやりたくない、膝が痛くなる、、、、。

私は肉体で限界があり、老体にムチ打ってやらなければいけないことが山のようにあり、、、、。


昼間に味わっていた思いと真逆な自分にあぜんとする。

一睡もできずに朝を迎えた。






「我思うゆえに我あり」


デカルトがそこまでわかっていたかどうかは定かではないが、

これは最もシンプルで真実だ。


我の思いは、どこにくっついているかで、地獄と天国がある。


形という分離にくっついていれば地獄があり、

形のない思いの中にいれば、天国がある。



光と闇を行ったり来たりの体験をしている。







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