心の中がどんどん静かになってくるにつれ、
日々の出来事の中で、自分が何を信じているかが、次々にあぶり出されてくる。
「君は自分のことは大胆にできるのに、
そこに人が絡んでくると、途端に恐れの中に入る」
そうなのだ。私は自分にとっての常識的なことはいくらでも平気で無視することができる。
だがそこに他人が絡んでくると急にちぢこまる。
それは人に迷惑をかけてはいけないという「常識」だ。
警察官という父のもとで育ったせいか、
ルールや規則や法律に関して過剰に反応する。
今回新たに旦那の写真集を作るにあたり、
ある人物の写真を載せたいという。
私の心が凍りついた。
著作権はどうなる?人権侵害に当たらないか?訴えられたらどうするんだ?
自費出版で部数もほんの少しだし、誰がそれを見る?と説得させられる。
いやいやそういう問題じゃない。私を説得しようとするな。
これは私の恐れの問題だから私が自分で処理する。
もうそれ以上話すな。
しばらく激しいやりとりがある。
だが彼とのやり取りの中で、
法律という名の下に、人を信頼しない自分を見る。
そもそもその写真は美しい。
その人物の美しさを表していることに人権の侵害はあるのか?
その人権侵害の基準はなんだ?どこに線引きがある?
いやいやわざわざそんなものを出して来る必要はない。
何事も穏便に済ませておくのがいいのだ。。。
この思いの中に恐れが潜んでいる。
こと無きを得るためにとは、そこに恐れがあることを暗に示している。
穏便に済ますとは、その恐れをそのままに残しておくだけなのだ。
恐れとは、人を信用しないことからくる。
自分と他人は分かれていて、その他人は私を脅かすと。
そんな写真外してしまえばいい。
ただそれだけなのに、私の心は動揺する。
訴えられるとしたら、彼であって私ではないのに、
ここまで恐れる自分をまざまざと見せられた。
美しい自分の写真を見て、人は怒るだろうか。
今までの私は、「怒るに決まってる!」と思ってきた。
それは「人は私を攻撃する」という信念を持っていたからだ。
どんな事情であろうと、人は攻撃すると。
だがその攻撃する人物がいるという思いは、
自分が攻撃することができると思っているからなのだ。
自分の中に攻撃心がある限り、人も私に攻撃してくるはずだと。
穏便に済ますことは自分を守るということであり、
それもまた防衛という攻撃なのだ。
それは自分と他人は違うという信念に過ぎない。。。
「この間、僕の問題について君は教えてくれただろ?信頼することを。」
人権問題はちがう!。。。と言いかけて、同じだと。
信頼ってなんだろう?
他人を信頼する。
自分を信頼する。
自分の人生を信頼する。
世界を信頼する。
言葉で言うのは簡単だが、実際これをするのは意志がいる。
それも一旦そうするのではなく、ずっとそれが継続されること。まったく全的に信頼するのだ。
それはひとつであることを証明する。
人の美しさを公にする。
それは愛からではないか。
たとえそれで訴えられて処罰されてもいいではないか。
そこからまた新たな学びがある。
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