2009年8月28日金曜日

シャンプーなしでさーらさら




ついに髪の毛がシャンプーなしでもさらさらになった。ここまでくるのに5ヶ月以上かかったが、この嬉しさはなんだかどこか解放されたような気分だ。
40数年間、ずっと使い続けていたシャンプーリンス。髪の毛さんは「シャンプーで油分がとられるから油出さなきゃ」と、一生懸命出し続けてくれていたに違いない。ところがここ5ヶ月で「あれ?別に出さなくてもいいみたいね...」と気がついてくれたのか。「必死こいて油出すの、やーめたっ」となったらしい。ブラシについていたフケのようなものもほとんど出なくなった。抜け毛もない、かゆみもない、ニオイもない。

これまでバイ菌が、ヨゴレが、ニオイが、かゆみが....とあれこれ心配してあれで洗い、これで洗いし、そうすると今度はぱりぱりお肌やがさがさ髪の毛になって、あれもつけてこれもつけてしなくてはいけなかった。最初っから何もしなくてよかったのだった。人は心配すると、そこから別の心配事が芋づる式に見つかって心配山のごとし、となる。

その心配ごとは、自然を味わうことがさえできなくなってくるのか。
最近、山にハイキングにくるおばさんたちも、大きなひさしのついた真っ黒い帽子をかぶっているし、腕には腕抜きみたいなものをつけている。せっかく山に来たのに、まわりを見渡す事も、空気を肌で触れる事も拒絶しているみたいに見える。じっと下をむいて黙々と歩く。これも紫外線や得体の知れない空気を怖れているのか。
私は毎日畑に出る。昔はちょっとお日様の下に出るだけで、あっという間にまっくろくろすけになった。でも石けん使わなくなってから、お日様にさらされても黒く焦げない。真っ黒な私はなんだかカッコ良く見えて好きだったので、焦げなくなったのはちょっと寂しい気もする。シミもふえるどころか消えつつある。たぶん肌の上の何億と言う微生物がいろんなものから皮膚を保護したり、働いてくれているんじゃなかろうか。

私は化粧をしないのでよくわからないが、すっぴんもいいよ。そのうちお化粧は口紅と目のまわりだけですます人が増えてくるんじゃないかとおもう。だって、石けんをやめるだけでその肌は静かにきれいになっていくし、ファンデーションや化粧水をつける必要がなくなってくるんだもの。

前に友達が会社に行くのに化粧をしなければいけないんだっていうのを聞いたけど、それってセクハラじゃないの?「化粧をしなければ見れないとでもいうのか?」って上司に言ってやりなさい。じゃあ、男も化粧をしろよ!と。


最近は特にあれが怖いこれが怖いと恐怖をかき立てる情報が増えすぎている。私はもうテレビを見るのをやめてしまった。あれは心を動揺させるばかりだ。それよりテレビを止めて静かな時間を作ろう。するといろんな恐怖の発信元がほとんどテレビからの情報である事に気がつくはずだ。「地球温暖化」も「紫外線」も「新型インフルエンザ」も「ヨゴレ」も「ニオイ」もみんなテレビから入ってくる。インターネットは見るも見ないも選択が出来るが、テレビはあたまに勝手に入ってくる。
これらがもし、本当はまやかしだったら、私たちはなんてバカげた事で右往左往させられているのか。



テレビを止めると、四季が変化している事に気がつく。夏の音はいつのまにか秋の音に変わっている。空気も光も風のざわめきも夏が終わっていく事を教えてくれている。自分のまわりの心配事を手から離すと、自然の変化に身を委ねられる。地球がまわっている事や、太陽がまわっている事や、星の位置が変わっていく事に視点を合わせられる。するとこの地球上のもろもろの事がちっぽけな事におもえてくる。そんな視点もあっていいんじゃないだろうか。

勝手に石けんなし生活は、結局、知らない間に植え付けられていた恐怖や情報から自分を解放することなのだと言うことに気づかされる。


絵:けんぽ表紙「里山の秋」

2009年8月22日土曜日

大根は回転する




この世のものは、回転しながら運動しているようだ。
このあいだ「奇跡のリンゴ」を作られる木村さんの本を読んだ。その中に、大根は回転しながら育つ。というのがあった。何でも大根は地面の中で右回りに回転しながら根っこを大きくすると言う。だからまんべんなくお日様に葉っぱがあたるというわけだ。そういえば、二股に分かれた大根を収穫すると、たいていねじれている。二つの大きなおみ足が、恥ずかしそうに交差しているのだ。三つ股の大根もそうだった。みんなねじれていた。回転しながら大きくならないと、ねじれるわけがない。だから、引き抜く時は左回りに回転させながら引き抜くといいというわけだ。
インゲンやキュウリやカボチャのツルもらせんを描いているし、朝顔のつぼみも回転しながら大きく花を開く。テレビで見るハイスピードで見る植物の成長はみんなねじれながら大きくなる。台風は回転しているし、水は回転しながら排水溝に落ちていく。南半球は逆回りだと言うから、南半球に育つ大根は左回りなのだろうか。
そういえば、私の頭のつむじも回転している。指紋も渦を描いている。地球もまわっているし、太陽もまわっている。銀河もまわっている。原子は原子核の周りを電子が高速で回っている。

太古の遺跡には必ず渦巻き模様が描かれている。インディアンの聖地にも彫られてあった。きっと太古の人々は渦巻きがエネルギーの象徴である事を知っていたのだ。

私の大好きな絵本に「ちびくろさんぼ」というのがあった。トラがバナナの木(だったっけ?)の周りをぐるぐる回って溶けてバターになるのだ(!)それを使ってホットケーキを焼いてみんなで食べるという、常識を覆すぶっ飛んだ絵本だった。
そこにも回転が象徴的に出てくる。回転すると何かにメタモルフォーゼするのだ。回転すると螺旋状に上がっていき、同じ場所であるのに一段階上の違う次元に上昇するのかもしれない。(このばあい、ニンゲンにとっての都合のいいメタモルフォーゼだが...)

どれ、私も一つ回転してみますか。


絵:にんじんです。

2009年8月19日水曜日

お肌さらさら




肌の事でふと気がついた。
わたくしごとでもうしわけないが(いつもわたくしごとだらけのくせに)、私の肌の夏はなんだかいつもべたべたしていた。(聞きたかねーよ)
今年夏に入って、いつものようにべたべたした感じが始まっていたが、いつのまにかそれがなくなっていたのだ。気がつくと、肌はさらさらした心地よい感じ。これも石けんを使わなくなってからのご利益に間違いない。たしかに暑い季節になって若干の体臭があった。いつもの事だから気にしていなかった。でもいつになく、なんだか甘い香りがしていた。(こっ....これがフェロモンというやつかーっ?)

だがそれも何日かたつと、嘘のように消えている。そしてあの肌のべたべた感がまったく消えていたのだ。前は汗の水分が蒸発して塩分だけが残って、べたべたしていたのだろう。ところが今は汗が引いても塩分がないのか、さらさらしているから、夏の蒸し暑さを肌に感じない。どこかひんやりとした薄い膜のような薄い層の空気が肌の上に存在しているみたいなかんじだ。冷たい水をあびたあとのようなひんやり感。おかげで蒸し暑い夜もさらさらお肌でぐっすりなのだ〜。

いやー、まったく人の身体ってものすごく精巧に出来てんだなあ。


絵:へるすあっぷ21エッセイ「アイセラピー」

褒められちゃった野菜




田舎の母に畑で採れた野菜を送ってみた。(田舎に東京で作った野菜を送るって言うのも変なんだけど)カボチャ、キュウリ、ナス、ピーマン、トマト、モロヘイヤ、バジル。
うまいうまいと大喜び。キュウリなんか、皮むかずに食べられると言う。?皮むかずって、あなたずっと皮むいて食べていたの?

彼女はその昔、農協で働いていた事があって、キュウリやトマトには農薬がかかっていた事を知っていたのだと言う。農協さんが「いいですか〜、農薬は収穫の一週間前にやめとくんですよ〜」とさんざん呼びかけしているにもかかわらず、「いんや、ちっとでも見場のええもんが値が高く売れる」っちゅう人々がいて、2、3日前までかけつづけていたものだという。中にはかけすぎて自分に降りかかり、救急車で運ばれた人もいたのだと。
今の農家や農協さんはそんなことはないと思うが、その昔は農薬全盛期だったそうな。そんな実情をはたで見てきていた母は、ずっとキュウリの皮をはぎ続けていたのだ。今でも。

だけど、草ぼうぼうの中で草と一緒に育つ野菜はなぜか虫がつかない。先日バジルがあまりにも草の中で共存しているので、親切のつもりでまわりの草を刈ってやった。すると翌日には虫がバジルにわんさか来ていた。親切があだになってしまった。ほったらかし畑は草との兼ね合いがむずかしいのだ。刈りすぎてもいけないし、刈らなさすぎてもいけない。また、草なのか野菜なのかわからなくもなる。刈っている最中に「あっ!やっちまった!」なんてこともある。きのうは、いっしょにやっている仲間が草と間違えて蕎麦を刈ってしまった!このやろーって、首根っこつかんでぶるんぶるんふってやった(すんません)。


お盆だし、お墓のまわりの草を刈っていた。
ふと思う。私って刈ってばっかりだなあ...。これって破壊行為だよなあ..。破壊ばっかりしているなあ。木を刈って、草刈って、地面を掘り起こして....。よくかんがえたら私が自然の世界で何か作った事あるか?種、作った事があるか?葉っぱ、作った事があるか?.....ないじゃないか。

ニンゲンは何一つ作れないんだなあ。ただやっている行為としたら、種を一個地面に入れるだけ。その種が芽を出すのも出さないのも、自然の中で話し合われた結果、生命が活動しはじめるのだ。ニンゲンは、子供を作る事以外何一つ生命を生み出せていない。これだって、種を一個(?)入れただけだ。

地球という大地に種を入れる。女性という大地に種を入れる。あとはじっと自然界がそれを育んでくれるのを待つ。
ニンゲンは地球という大地にほうりなげられたやんちゃな子供なのかもしれない。もらったラジコンのオモチャをどうして動くのだあ?と分解して分解して破壊してしまうだけなのだ。あとは、自然という驚異的な叡智が、母が、それをまた再生してくれる。ニンゲンはただその仕組みがどうなっているのかを分解して知った気になっているだけなのだ。そして種一つ自分で作り直す事は出来ないのだ。

私は今までずっと絵という創造物を制作し続けてきたから、この世はニンゲンが創造できる世界だと思い込んでいた。しかし、自然界はまったくその逆だった。ニンゲンの肉体を創造している叡智、そしてその肉体を養っている植物。すべて何一つニンゲンが作る事は出来ないのだ。

勝手に石けんなし生活でわかってきた事は「あれもしなくていいんじゃないか?」「これもしなくていいんじゃないか?」ということだ。あれもこれもしなくてよかったなら、結局ニンゲンがあれもやったらいいんじゃないか?これもやったらいいんじゃないか?という事がいらなくなってくる。まるでちっちゃな子供があれこれ考えて色々お馬鹿な事をやっているようなもんだ。
今までニンゲンはずっとプラス思考(足す事ばかり)だったけど、このへんでマイナス思考(減らしていく方向)に行った方がいい気がする。しかしこの行為には勇気がいる。プラス思考の習慣はなかなか消えないものだ。


大地は叡智に満ちている。子供の次元で行われている行為を、ただじっと長い目で見守ってくれている偉大な存在がいる。
「しゃあねえなあ。また再生してやるか」と。

草を破壊しながら思う。これでいいのだ。ニンゲンが大人に成長する過程は、まず破壊から始まるに違いないのだ。何もせずに見ているだけじゃ知りえない、何かがあるのだ。と、子供の私は思うのであった。ちゃんちゃん。


絵:「あさがお」けんぽ表紙

2009年8月17日月曜日

府中での個展




府中での展覧会が終わった。
終わってみれば、いろんな事を考えさせられた貴重な個展だった。

私のこれまでの展覧会は、銀座や、青山や、NYではソーホーの画廊だった。しかしこれが、実は私がほんの一部の世界しか見ていなかったとこに気づかされる。
いままで会場に足を運んでくれる人は、出版社、広告代理店、グラフィックデザイナーなど、いわゆる業界の人がほとんどだった。だからいちいち絵の説明などせずとも、おのずとそれぞれが私の絵に対する考えをもってくれていた。いや、今から思えばそれは単に私の思い違いだったのかもしれない。

今回やった府中での個展は、喫茶店の横にくっついた小さなかわいい画廊だった。知り合いが紹介してくれた画廊だったが、はじめてこの場所に来て、正直に言ってとまどった。それでもここに巡り会ったのも何かの縁だと思い、快く引き受けた。

そこで私を待っていてくれたのは、業界の人々ではなく、一般の人々の絵に対する考え方だった。それまでは、絵を展示場に飾れば、これがどのように使われたのか、どのように絵になっていったのかをわかってくれる人ばかりだった。ところが、そういう業界にいない人々には、私の絵は一体なんなのかわからなかった。

「これはなんですか?」とギャラリーのオーナーさんは聞く。
「あ、これは本の表紙に使われた原画です」と私。
「え?原画?本の...表紙....?」
「ああ、この絵をもとにデザインし印刷し、本の表紙が出来ました」と、私は説明したつもりが、彼女はもっと混乱したようだった。
「どこかで見たことがある絵に見えますが、これはどこかにあったものを模写されたのですか?」という。これには私は困った。
「いや、自分で考えて描きました」というと、びっくりしたようだった。
「ぜ...ぜんぶですか?」「はい。そうです。一から全部です」
ここまで説明した私は、前に同じような経験をした事を思い出した。

それは東京都最後の分校でやった展覧会だった。
一人のおばさまが、食い入るように絵を見ているので、そばによって説明をした。絵の横にアメリカで使われたペーパーバックの見本もつけておいたので、それを指差しながら、
「この絵が、この印刷物の原画です」
「へえ〜〜〜。そうですか〜。」おばさまは、原画と印刷物を見比べてこう言った。
「うまく作りましたねえ〜。これにそっくりじゃないですか」

私は一瞬めまいがした。
おばさまは、私が印刷物をまねて絵を作ったと思い込んでいた。
「いや、違うんです。逆です。この絵がこの印刷物になりました」
といってはみたものの、彼女がその意味を解したとは思えなかった。おばさまは首を傾げながら、その場を立ち去った。まるで私がおかしなことを言う人だと言わんばかりの顔で...。


これが本当の一般的な見方なのだ。私は長い間、専門科の中に知らず知らずに入り込んでいて、一般の人々がどんな感覚で絵を見ていたのかをまったく忘れて、いや、気がついていなかったのだ。足元をすくわれたような気分だった。分校でのおばさまの態度は彼女だけが理解できないのではなく、彼女の言葉を通して私に何かを伝えようとしていたのだ。それを今回の展覧会で確信した。

絵は、みんなが楽しんで生活がゆかいになる手助けをしている。中には個人的な思いをぶつけるものもある。メッセージ性が強くなれば、不快な思いになる絵も出てくるだろう。それはそれでいい。しかし私は生活がゆかいになる方を選んでいこうとおもっている。しかしそれはそうやすやすと出来るものではないのだ。

今回の経験を通して一体どうやったら私の絵を理解できるのか、どうやって広めていけばいいのか、本当に考えさせられた瞬間だった。まさに初心に戻って、いやじつは絵とはいったい何なのか?人にとって「美」とはなんなのか?それを私は真剣に考えなければいけないときに来ている。

本当にいい経験をさせていただいた。ありがとうございました。

絵:ラブロマンス ペーパーバック表紙

2009年8月15日土曜日

サルのおとぎ話




ま、ただのおとぎ話だと思って聞いてください。

サルに連日連夜とうもろこし、キュウリ、ナス、ピーマン(これはどうもきらいらしく、腹いせに苗をなぎ倒す始末)、枝豆、カボチャと次々とやられ、途方に暮れていたつくしさん。荒れた畑をぼーぜんと見ながら、ふと「あれ、お墓にお供え物をしていなかったなあ...」とおもいたち、ゆいいつ残ったとうもろこし、キュウリ、ナス、ピーマン、枝豆、いんげん豆などを、まとめて一番古いお墓(450年前)にお供えした。
「どうもありがとうございます」

次の日、お墓を見ると案の定、好物のトウモロコシとキュウリはなくなっていたが、他のはそこらに食い荒らしたままになっていた。
その夜、うちの庭の前の山で、珍しくサルがやって来ているらしく、2回「ホーッ」「ホーッ」と鳴いた。
それを聞きながらダンナと二人で「サルがお礼でも言ったのかもね〜」なんてわらったものだった。
次の日、お墓の前に食い荒らしてあったお供えはみごとにきれいになくなっていた。ちょうどコスモスが咲いていたので、他のお墓の前にもお供えをした。

それから....。
サルはあれ以来、畑を荒らさなくなった。カボチャにも手をつけない。キュウリもナスもぜんぜん。ゆいいつ、時々遊びに来るらしい跡があるのは、私が大事に育てている蕎麦畑だ。その上でごろんごろんと寝っころがったり、たつくりまわったり(ふざけて遊ぶこと)して、花の咲いた苗がなぎ倒されている事以外、何も被害もなくなった。今日はその近くの草刈りをした上に、うんこがころんとのっかっていただけ。
よくみると、虫がいっぱいうんこに入って忙しくしている。これも分解されて、畑の肥料になっていくんだなあ〜と思わず感心。ウチの畑は動物性の肥料は一切入れないので、これは貴重な肥料だ。


サルとニンゲンの関係は面白い。
いっしょにやっている友達がサルを追い払おうと策を練った。人の形をしたカカシだ。あまりによくできすぎて、畑に来たニンゲンのほうがビックリする。サルもこれにはやられるだろうとおもいきや、その日に限って、彼女が大事にしていたスイカが食べられてしまった。サルはカカシを作ったのは彼女で、大事にしているのはスイカだということを知っているかのようなピンポイントな仕返しだった。

さて羹(あつもの)に懲りた人は膾(なます)を吹くように、必要以上に用心する。彼女は次に出来たスイカを「サルに食われるくらいなら.....」と、まだ小さいスイカを収穫。半分に割ると、スイカはまだぜんぜん白く、まん中がすこ〜し薄ピンク色に染まっていただけであった。それをみんなでうすくスライスして食べた(笑)。なんとかスイカの味はした。


先の話は、論理的な人にいわせりゃ、「ありえね〜」「つくしさん、エサ、あげちゃいましたねえ。そりゃまずいですよ」となる。そりゃそうだ。でもカカシスイカの一件をかんがみると、敵視すると攻撃される?ともおもえる。
サルにすりゃ、ここを縄張りにしていたのかもしれないし、それを拒絶されるとハラがたつのかもしれない。

サルや虫や草は自分の意識を顧みるいい機会になってくれている。


絵:「さつまいもほり」COOPけんぽ表紙

2009年8月14日金曜日

町内会で忙しい




ここんところ、うちの町内会の夏祭りの準備や、府中での展覧会、仕事のバタバタで更新できなかった。
いやー、ウチの夏祭りはサイコー。ニューヨークなんて雑多な街から、いきなり80世帯しかいない小さな街(というより村だな)にひっこしてから、日本の昔ながらの行事に惚れ込んでしまう。町内会の人々はこれまた一癖も二癖もあるジジババばっか。これがまた、味わい深くてたまらんのだ。私は失礼ながらもニンゲン観察をする。ここの人々は一見ぶあいそなあたりの悪い人に見える(笑)が、これがまたかめばかむほど味が出るスルメみたいな人ばっかりなんだな。こんだけ個性的なのに、なんだかいざという時はまとまる。これが日本人の真骨頂なんだとおもう。どこか深ーいところでお互いを認めあっている。圏央道問題で相当もめてまっぷたつに分裂してしまったこの町内会。話せば長ーい行列が出来る。でもここにきてなぜかその二つは折り合いを付けようとしている。ここが日本人のよいところなのだ。これがニューヨークだったらそうはいかない。やれ訴訟だ、敵だ味方だと大騒ぎだ。最近は日本も訴訟だ、敵だ味方だとなってきたが、それでもこの村にはまだ昔ながらの空気がただよっている。こういう村の空気がそよそよとまわりに流れていって、やがて日本や世界をおおいつくしてくれるといいなあ。


絵:荒井夏祭りポスター2009